わからないことは自分の
ステレオタイプな価値観で判断

 つまり、もともと持っている(狭い)常識や価値観だけで、自分の都合のいいように問題を解釈したのだ。たとえば、毎年順調に利益を伸ばしているB to Bのシステム開発会社と赤字続きの製菓会社があったとして、幼稚園児にどちらの企業がいい企業か尋ねたとしたら、「お菓子」につられて製菓会社を選ぶ可能性が高いだろう。そんなようなものである。しかし、それは当時の人だけの話ではない。

 私たちはみなそれぞれに自分なりの世界像、価値観を持っている。この価値観は、過去のすぐれた哲学者、思想家や政治家などがつくった、いくつかの政治思想や物事の判断基準、イデオロギーのステレオタイプ(典型的なタイプ)にわかれ、そのどれかをもとに自分の育ち方や経験が加わってつくられたものである。だから、社会階層や、世代や、地域によって、私たちが持っている価値観のステレオタイプは大きく異なる。しかも、自分がどのようなステレオタイプの価値観を持っているかは普段はあまり意識していない。それを当たり前だと思っている。

 だから、世の中の事象や他者の行為についても、持っている価値観のステレオタイプによって180度評価が異なる。

 たとえば、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリさんの環境保護運動を「環境原理主義者の過激な反社会的運動」という人もいれば、「深刻な環境破壊の行く末を案じる若い世代の魂の叫びだ。いますぐに対応策を考えなければならない」と思う人もいるだろう。

 安倍前首相による集団的自衛権の解釈変更を東アジアおよび世界レベルの地政学的リスクの高まりのなかで、現実的に採りうる効果的な手法を選択したと考える人もいれば、これだけ重要な政策を法案すら出さず閣議決定で変更することは異常な行為であり、さらには日本を世界戦争に巻き込む契機をつくったと批判する人もいるだろう。

 個人がステレオタイプを持って判断している以上、それはその価値観による一面的な見方でしかないのだ。