そうサマーズを挑発した上で、クルーグマンは、サマーズの指摘するインフレのリスクについては、こう反論した。第一に、本当の需給ギャップなど、誰も分かりはしない。第二に、米国救済計画の内訳を見ると、インフレを招くような景気刺激策は少ない。第三に、インフレが起き始めたら、金融引き締め政策をやればよいだけの話だ。

アメリカで進む「経済政策における静かな革命」

 なお、サマーズの議論をよく吟味してみると、彼は、財政赤字を懸念する日本の経済学者とは、まったく異なる議論をしていることが分かる。

 というのも、サマーズは、インフラ投資などを中心とした第二弾の「より良い回復のための計画」により期待しているのである。そして、生活困窮者の救済を中心とした第一弾の「米国救済計画」が高インフレを招いてしまった場合、第二弾のインフラ投資などを行う余地がなくなることを懸念しているのだ。

 それゆえ、サマーズは、後日、批判に対してこう答えている

「私の見解では、1.9兆ドルの規模自体は何も間違っていないし、景気刺激策の全体では、もっとずっと大きい規模でも支持するだろう。しかし、米国救済計画の実質的な部分は、単に今年や来年の所得を支援するためのものではなく、今後十年あるいはその先も見据えた、持続可能で包摂的な経済成長の促進に向けられるべきだ。」

 つまり、サマーズは「積極財政」を肯定したうえで、インフレ・リスクを回避するには、その「使途」をより長期的な公共投資へと振り向けた方がよいと論じているのだ。「積極財政」を肯定するという点において、サマーズもクルーグマンも差異はないと言えるだろう。そして、このような認識を示す有識者は、彼らにとどまらない。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイスは、第一弾の短期的な救済策に続いて、第二弾として、インフラ投資や気候変動対策などの経済政策が計画されていることを高く評価している。「最も重要なのは、バイデンの計画が、財政赤字だの国家債務だのに関する標語に一切、言及していないことだ」とガルブレイスは言う

 つまり、バイデン政権の経済政策は、短期の景気刺激策で終わるものではなく、将来、緊縮財政に逆戻りするものではないという意志が示されている点が優れているというのだ。

 さらに、ウォーリック大学名誉教授のロバート・スキデルスキーは、「経済政策における静かな革命」が進行していると指摘する。

 積極財政が単に需要を刺激するだけであるなら、確かに高インフレのリスクはあろう。だが、供給能力をも強化する公共投資であれば、高インフレは回避されるだけでなく、将来の経済成長が可能になる(これは、サマーズと同じ考え方であろう)。今日、財政政策は、金融政策よりも強力な景気対策というにとどまらない。それは、気候変動対策や感染症対策に資本を振り向け、社会をより良くするための手段なのである。これこそが、新しい財政運営のルールであるとスキデルスキーは言う。

 コロンビア大学のアダム・トーズもまた、バイデン政権の追加経済対策は、「新しい経済時代の夜明け」であると宣言している。

 過去30年間、米国の経済政策を運営するテクノクラートたちは、低インフレの維持を最優先して、財政金融政策を引き締め気味に運営し、失業を放置し、労働者の地位を弱めてきた。バイデン政権は、そういう時代を終らせようとしている。これは、民主的勝利であるとトーズは評するのである。

 ちなみに、世論調査によると、米国民の7割が1.9兆ドルの追加経済対策を支持し、その規模についても「適正」が41%、「少なすぎる」が25%であった。

 先日論じたように、バイデン政権の大統領補佐官ジェイク・サリバンも、公共投資や産業政策の重要性を説き、過去四十年間の新自由主義は終わったと明示的に述べた。世界は、「大きな政府」の時代へと変わりつつある。 そういう大きな議論が始まっているのだ。

 ちなみに日本の長期金利は、イエレンが「歴史的な低金利水準」と言った米国の十分の一以下である。にもかかわらず、未だに財政赤字の拡大を恐れ、歳出抑制どころか増税の議論を始める者すらいる始末である。「大きな政府」への転換については、議論すらされていない。

中野剛志(なかの・たけし)
1971年神奈川県生まれ。評論家。元・京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文“Theorising Economic Nationalism”(Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』『日本経済学新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』『世界を戦争に導くグローバリズム』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『国力論』(以文社)、『国力とは何か』(講談社現代新書)、『保守とは何だろうか』(NHK出版新書)、『官僚の反逆』(幻冬社新書)、『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)など。『MMT 現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社)に序文を寄せた。最新刊は『小林秀雄の政治学』(文春新書)。