みずほが、不祥事を何度繰り返しても生まれ変われず、金融庁に「言うべきことを言わない、言われたことだけしかしない」と企業文化を酷評されるに至ったのはなぜか。その真相をえぐる本特集『みずほ「言われたことしかしない銀行」の真相』(全41回)の#5では、日本興業銀行、第一勧業銀行、富士銀行の旧3行が合併してみずほ銀行が誕生する前夜に時をさかのぼって検証する。
当時の世界最大となる金融グループ・みずほ誕生の再編合意前夜、ごく限られた人間たちのあいだで必死の頭脳戦が展開された。興銀と富士はそれぞれ一勧とだけの2行合併を望んだ。一勧はあくまで3行を主張した――いかにして3行統合はなったか。交渉の舞台裏の前編をお届けする。
興銀から一勧への合併交渉は
異例の接触が起点となった
1999年、2月下旬。第一勧業銀行頭取室。「面白い話が企画室にきてますよ」――。部屋の主に副頭取の西之原敏州は、そう切り出した。企画室は特命事項の担当部署で、その室長を通じて、日本興業銀行幹部が再編交渉を申し入れてきたのだった。
通常、合併・再編交渉はトップ同士、あるいは親交深い役員同士の極秘の話し合いから始まる。だが、興銀の役員は一勧の中枢にパイプを持っていず、異例とも言える部長クラスの接触が起点となった。
頭取の杉田力之は、内心で快哉を叫んだ。興銀からの接触を、彼は密かに期待していた。担当者の報告を受け、杉田のなかで1つの構想がふくらんでいった。
「3行でいこう」――。断を下すには、そう時間はかからなかった。3行とは、一勧・興銀・富士の3行統合を指す。「本当にやりますか」と西之原は覚悟を確かめるように聞いた。担当者たちはたじろいだ。杉田の答えは、むろん変わらなかった。
時をさらに2年、さかのぼろう。97年、一勧は総会屋不正融資事件で、相談役は自殺し、会長以下11人もの役員が逮捕され、21人が引責辞任し、存亡の危機に追い込まれた。ともに常務から杉田は頭取に、西之原は専務に急きょ昇格した。西之原は1年後に副頭取に上がる。
そこからは修羅場だった。組織再生と社会的信用回復の責任と手だてを、すべて2人が背負った。時に意見は食い違えど、この苦境をともにくぐり抜けた同志的結合、独特の信頼関係が2人にはある。
そして再編に関して、2人は早くから“3行”に思いを馳せていた。その具体像の輪郭が、興銀の接触によって浮かび始めた。3行統合という大胆な発想を、2カ月後の3行頭取による基本合意にこぎ着けるまで、2人は幾度となく「方向は間違っていないな」と確認しあった。