旧統一教会にとっての「みそぎ」
日本人の「美徳」がマイナスに働く
もちろん、旧統一教会はこれまで会見を何度かやっているが、それが「みそぎ」になったわけではない。では、何が「みそぎ」になったのかというと、関係のある閣僚の辞任、解散請求を視野に入れた調査権行使、そして被害者救済法案によって、なんとなく、この問題が解決した、というイメージが社会に広がったことだ。
マスコミによって、これらの情報がサッカーW杯のように連日お祭り騒ぎで伝えられた。実際には何も解決していないのだが、国民からすれば毎日あれだけ大騒ぎをしていれば、「これだけやれば十分だろ」と錯覚してしまう。そうなると、「反日カルトは日本から出ていけ」と叫んでいた人たちの怒りが鎮まってしまう。そこまで怒っていない人ならばなおさら無関心になっていく。
かくして、「旧統一教会」報道の視聴率や部数、アクセス数は低下の一途をたどっていき、メディア側も「旧統一教会?なんか新しい動きがあればやってもいいけど…」と敬遠していくというわけだ。
リスクコミュニケーションを生業としているということもあるが、筆者は「みそぎを済ませる」「水に流す」という考え方は世界に誇る日本人の「美徳」だと思っている。
相手を徹底的に糾弾して、自ら過ちを認めるまでは絶対に許さないという国も多い中で、相手をそこまで追いつめずに許すというのは、日本人の寛容さと協調性のあらわれではないかと考えている。
ただ、物事にはなんでも良い面があれば悪い面もある。
このような考え方が、日本社会のさまざまな課題において、責任の所在を曖昧にさせて、問題の先送りをさせていることも否めない。つまり、よく言われている「何も変わらない、何も決めない日本」の原動力になっている恐れがあるのだ。
わかりやすいのは、政治家だ。不正やスキャンダルが発覚しても、大臣などの役職を辞することがあっても、会見をしたりすることで「みそぎは済んだ」なんて言って国会議員の座にしがみついている。「説明責任」なんて言葉をよく使う割には、過去の政権の政策を検証して問題点や過ちを認めることもない。「もう済んだことだから水に流してよ」と言わんばかりにスルーしている。
つまり、日本人の「美徳」が、「いつまでも何も改革できない日本の政治」をつくっている側面があるのだ。
「そんなことはない!今回の被害者救済法のようにちょっとずつだが、政府与党が頑張って社会をより良くしているではないか」という自民党支持者もいらっしゃるだろう。ただ、そういう話をして大人は丸め込むことはできるが、素直な子どもたちや、社会に出る前の若者たちの目は誤魔化すことができない。