果たして今後
国家という枠組みは必要なのか
中国での感染拡大を受け、英仏などヨーロッパ諸国は、中国からの入国者を対象にしたコロナ対策の水際措置を再導入した。しかし、それを中国は「政治的」な動きだと批判し、対抗措置を取る方針を示した。
こうしたコロナ対策からも、中国共産党は指導者の権威を守るために、都合の悪い事実は隠蔽(いんぺい)し、ねじ曲げているようにみえる。そうした姿勢を取っているようでは、国際社会から信頼されることはない。一連の出来事は、中国の権威主義体制の限界を示している。
繰り返しになるが、国家の基本的な役割は、国民の生命と財産を守ること。また、再配分機能によって弱者を救済し、平等な社会を実現することである。
コロナ禍以降、多くの国々が「大きな政府」となり、再配分機能を強化し、弱者救済にかじを切っている(第294回)。その部分においては、国家は一定の機能を果たしているといえる。
だが一部の国では、国家のエゴが増大するあまり、肝心の「国民の生命と財産を守る」という営みが破綻しているように思う。そうした国々では、本当に「国家」という枠組みが必要なのか疑問である。
私はこれまで、グローバリゼーションの時代には小規模で機動的な民主主義「コンパクト・デモクラシー」が優位であると主張してきた(第249回)。
中国だけではなく、インド、韓国、シンガポール、フィリピン、カンボジア、ラオスなどにおいても経済特区が設置されている。
つまり、都市ベースで市場経済を導入して外資を呼び込み利益を上げて、経済成長につなげようとするのが、成長著しいアジア地域では主流の手法なのである。
だが中国では、その成長モデルを国家が自ら破壊しようとしている。
ウクライナ紛争と、中国における台湾や「ゼロコロナ政策」を巡る混乱。私は、22年に起きたこれらの出来事を受けて、「今後果たして国家という枠組みは必要なのか」という問題意識を持つに至った。
現代において、従来の国家という枠組みはもはや、国際社会の発展や国民の幸せを保証するものではなくなっている印象だ。
今後もこの観点から、中央集権体制ではなく、地方自治体や中小規模の国家・地域による「コンパクト・デモクラシー」の台頭に着目したいと考えている。