京都市は断片的な発掘調査成果から、本丸を中心にして3重の堀をめぐらした階層的な二条城の姿を想定している。しかし、当時の城のかたちから考えるとこの復元には無理がある。武家御城が石垣と堀をめぐらしていたのは間違いないが、すべての石垣と堀を、本丸を頂点にして階層的に配置していたとするのは、まるで近世城郭をイメーじしたようで適切ではない。
義昭の二条城は、それぞれの屋敷が個別に石垣と堀をめぐらせた分立的な館城群がゆるやかに本丸の周囲に集まっていた、というのが本当の姿だと思う。こうした姿なら、同時代の日本各地の守護の館城にいくつもの類例を見いだせる。
また、二条城を実見した公家、山科言継が『言継卿記』で「だし」と呼んだ施設を、京都市が「出丸」と理解したのも賛成できない。「だし」は、イエズス会宣教師がキリスト教布教のために編纂したポルトガル語の日本語辞書『日葡辞書』が「張り出したところ」「城の少し外側につくられた堅固な場所」と記した。つまり、城の城壁が外側へ張り出したところを「だし」と呼んだのである。
城壁の張り出しは、敵の側面に弓矢や鉄砲を発射した「横矢の張り出し」や外側に突出した櫓台のように、各地の城跡で認められる。義昭の二条城は要所の城壁を張り出して、守りを強化していたと解釈するのが穏当である。実際の義昭の二条城の発掘でも、意図して堀を屈曲させていた部分を見つけていて、考古学的成果とも一致する。徳川二条城と京都御苑内では、発掘で見つかった義昭の二条城石垣の一部を移設展示している。