達郎氏が病に倒れ、思いがけなくトヨタのトップに立った奥田氏は、その持ち前の決断力と実行力でトヨタの変革を打ち出した。奥田トヨタ体制は97年にハイブリッド車「プリウス」を市場投入し、トヨタの今日のハイブリッド戦略の種をまいた。また98年4月には、奥田体制の下、章男氏が42歳で当時の米GM合弁生産会社NUMMIの副社長に就いている。国内営業の次長クラスからの抜擢だった。

 トヨタ発展の基礎を築いた英二氏、それを「世界のトヨタ」に位置付けた章一郎氏、兄の章一郎氏を支え国際化路線を継いだものの病に倒れた達郎氏と三代続いた「豊田家のトヨタ」は、その後プロパー社長である奥田氏・張富士夫氏・渡辺捷昭氏らへと続いた。かつて奥田氏は、トヨタと豊田家について聞かれると「豊田家は尊重する」と答えていた。

 その後2009年6月に豊田章男社長が就任し、今日までその体制が続いてきた。

 章男氏の成果は言うまでもない。リーマン・ショックで傷んだトヨタを立て直し「危機であるからこそ私が社長である意味がわかった」と就任時の嵐の船出を振り返ったこともある。「もっといいクルマをつくろうよ」が口癖のカーガイらしい現場主義で、創業家の旗印の下で構造改革を進めた。結果として世界トップメーカーの立場を確立し、国内企業として最高の売上高・利益水準を確保するに至っている。

 また、自工会会長として現在、異例の3期目(通例は1期2年の任期)に入っており日本の自動車産業を強い個性でリードしている。「自動車からモビリティ産業への変革」をうたい、日本財界の総本山である経団連にも「モビリティ委員会」を設置して日本のモビリティ産業集結を呼びかけるなど、広く産業界リーダーとしての役割と期待が高まっている。

 このため、4月からの新体制で注目が集まるのは、章男会長と佐藤社長の役割分担がどうなるかだ。