家康への援軍で終わった
信長と信玄の友好関係

 最後の半年になって、信玄が信長に反旗を翻した動機の一つとして、1571年9月に信長が比叡山の焼き討ちをしたことは、伏線としてはあるだろう。信玄は「天魔の行い」と批判し、正親町天皇の異母兄で京にいたので難を逃れた天台座主覚恕は、信玄の支援を期待して、権大僧正の肩書を信玄に与えたりもした。

 一方、畿内では信長が本願寺や三好三人衆に手こずり、朝倉・浅井連合軍が琵琶湖の湖西へ進出したりするなかで、将軍義昭は、信長に全面的に頼っていることに不安を感じて独自行動をすることが多くなったので、怒った信長は、1572年の9月に「異見十七ヶ条」を義昭に送って、勝手な振る舞いを諫めた。

 こういうなかで、信玄は徳川領だった遠江に本格的な侵攻を開始したのに対し、信長が同盟者同士のいざこざとして中立を保たず、家康に援軍を送ったことで信長と信玄の友好関係は終わった。

 三方ヶ原の戦いのときの構図は、信長の兵力はなお圧倒的だったが、本国である濃尾と畿内の二正面作戦を遂行するのには、不安が出ていた。信玄が家康が拠る浜松と長男の信康が守る岡崎に兵力を分けて抵抗する徳川を蹴散らすか封じ込めて濃尾に進出してきた場合に、信長は畿内の兵を減らして濃尾に兵を集中せざるを得なかっただろう。そうなると、畿内では反信長勢力が一時的にせよ、優位に立ちかねない勢いだった。

 信玄は動員できる限りの兵力を率いて南下し、二俣城などを落とし、浜松城に籠もる家康を無視して三河方面へ向かおうとしたが、この挑発に乗った家康は、城に籠もれという信長の指示を蹴って城外へ出て、浜松の北にある三方ヶ原で武田2万5000に織田・徳川1万1000が激突したとされる。

 結果は家康の惨敗となったが、信玄は浜松城を攻めず、浜名湖北岸から三河をうかがった。ところが、ここで、畿内では冬の到来を控えて、朝倉義景が兵を越前に引き揚げ始めた。信玄としては大誤算である。

 仕方なく信玄は、東三河の野田城を2月に包囲して落とし、長篠城で春の到来をまったが、ここで信玄は吐血し、ひそかに甲斐に引き返さざるを得なくなり、4月に途中の信濃伊奈郡駒場で死去した。