港町と城下町の結合を
好んだ豊臣秀吉

 豊臣秀吉は、信長時代に琵琶湖に面した長浜に最初期の本格的な城下町として築き、その後も、家臣たちに重要港湾などがある商業都市を組み込んだ城と城下町を築かせた。京極高次が関ヶ原前哨戦で籠城した大津城などその典型で、しばしば、武家屋敷だけでなく、商業地区までもが惣堀のなかに取り込まれた。

 そうした設計を得意にしたのが黒田官兵衛で、壮大な堀を巡らした大坂城を築き、京都の改造では正方形の街区を「鰻(うなぎ)の寝床」といわれる短冊型に改めて空き地を減らし、市街地全体を御土居に囲ませ、自らの居城である中津や福岡もそうした思想で設計した。

 鹿児島、大分などは、守護館の時代からその地方の中心だったが、その場所は海から1kmくらいは離れていた。しかし、このころ、海岸に近いところに城を移している。また、広島、高松、津、富山などまったくの平地であるし、松江、徳島、高知は、内陸部から海に近い小さな丘の上に領国の中心を移したものだ。

 松山は加藤嘉明の構想では、運河で海とつなぐはずだった。毛利氏は関ヶ原のあと萩に移った。第一希望は三田尻(防府市)だったが、地盤が悪くコスト高になりそうだったので、日本海側の繁盛した港町である萩が選ばれた。