ホンダはその頃、プリモ店(1489拠点)、ベルノ店(399拠点)、クリオ店(512拠点)の3チャネル体制で国内100万台販売を狙う3カ年計画(02~04年)を掲げるなど、強気の国内販売強化策を打ち出していた。

 当時は、小型車「フィット」がベストセラーのドル箱商品であり、3チャネルの車種バリエーションも豊富だった。しかし、ミニバンがブレーキとなり100万台実現には至らず、やがて国内新車需要全体の低迷、国内車市場の成熟化の度合いが強まる中で、ホンダは06年3月に国内3チャネルを一本化し「ホンダカーズ」へ転換した。

 ところで、ホンダといえば「シビック」「アコード」「オデッセイ」「フィット」などといった登録車が代名詞であり、そうした車種を思い浮かべる読者も多いだろう。だが、元々は創業者の本田宗一郎時代に、前述の通り軽自動車で四輪車事業進出を果たしたこともあり、軽自動車への思いは強い。

 その軽自動車が国内専用規格の「大衆車」としてのポジションを確立し、国内市場全体の4割を占めるに至る中、2011年当時のホンダの軽自動車販売シェアは9%台にまで落ち込んでいた。今では考えられない状況であり、ホンダの軽に対する思いを考えれば、屈辱であることは想像に難くない。

 この失地回復と、国内を含むグローバル戦略拡大に乗り出したのが伊東孝紳・元社長であった。

 伊東ホンダ体制は、グローバル戦略の拡大に加え、母国の日本国内年産100万台の維持のために、軽自動車の大幅なテコ入れを図った。そこで、商品の大幅刷新を図るべく、当時主流となっていたスーパーハイトワゴンの軽自動車を新たに開発することを決断。チームには元F1開発者などを抜擢し、室内、エンジンなど一から設計した乾坤一擲(けんこんいってき)の新商品を2011年12月に市場投入した。

 この新商品こそが初代N-BOXである。N-BOXによる起死回生は見事に成功し、その結果、今や、N-BOXはホンダにおいて名実共にトップの商品としての地位を確立した。