首相の岸田文雄による岸田派(宏池会)解散表明に始まった自民党の「派閥解散ドミノ」にとどめを刺したのは、自民党選挙対策委員長の小渕優子(50)だった。小渕は1月25日午後、自民党本部で幹事長の茂木敏充に茂木派(平成研究会)からの退会を通告した。優子は平成研の創設者で元首相、小渕恵三の次女。将来の会長候補で派閥のシンボル的な存在といえた。
優子と示し合わせたように、昨年死去した青木幹雄の長男で参院議員の青木一彦も退会。さらに茂木派では参院議員会長の関口昌一ら四役も続いた。他に追随者が出るのは確実で、優子の退会で茂木派は崩壊状態になった。
優子は退会の理由について、35年前に党議決定された政治改革大綱を根拠の一つに挙げた。大綱は閣僚や幹事長ら党執行部の派閥離脱を明記していた。大綱をまとめた総裁(首相)は竹下登、恵三は官房長官だった。優子の茂木派離脱は「平成研の原点回帰宣言」ともいえた。
平成研は竹下内閣の官房長官として「平成」の元号を発表した恵三が命名した。衆院第2議員会館にある優子の事務所には父、恵三が元号「平成」の発表の際に掲げた書のレプリカが飾られている。その平成研からは橋本龍太郎と恵三の2人の首相を輩出した。
しかし、2000年に悲劇が平成研を襲った。恵三が首相在任中に脳梗塞で倒れ、その後死去。恵三の師であった竹下も後を追うように他界した。この竹下、恵三の後継者が竹下の実弟の竹下亘であり優子。2人の後ろ盾となったのが登の元秘書で小渕内閣の官房長官だった青木幹雄。参院をまとめ「参院のドン」と呼ばれ、安倍晋三による「安倍1強」の下でも隠然たる影響力を保持した。
一方の茂木は小泉純一郎内閣で初入閣してから頭角を現し、第2次安倍政権発足後は重要ポストを歴任した。18年の自民党総裁選が巡ってくると、青木は元幹事長の石破茂を支持し、参院側と亘、優子もこれに追随した。これに対して茂木は安倍支持に回った。いよいよ茂木と青木との確執、対立は抜き差しならない状況になった。