映画『フォレスト・ガンプ』の世界にあこがれていったアラバマで、強烈な洗礼を受ける
このときの僕は、日本で勉強もスポーツもそこそこできて、天狗になっていました。だから、行くならアメリカで最も大変なところ、日本人のいないようなところに行ってみたいと思いました。
そして選んだのが、南部のアラバマでした。当時大ヒットしていた映画『フォレスト・ガンプ』。あの舞台は僕が理想にしていた古き良きアメリカそのものでした。何も考えずにその映画一本で、アラバマを選びます。そして、ここで強烈な洗礼を受けることになります。
英語は南部訛りで通じない、そもそも聞き取れない。友達ができない。バスケットボールをやっても、プロに行くことが決まっている選手も普通にいて、まったく通用しない。走っても勝てない。歌でもダンスでも、存在するすべてのことで得意な生徒には今までに経験したことがない異次元の敗北を喫しました。
僕は、アラバマの高校に交換留学生として通いました。結果的に、成績が認められ奨学金をもらい、卒業後、1995年にアラバマ州立大学ハンツビル校に進学しました。
ハンツビルはNASA(アメリカ航空宇宙局)の基地があるところで、当時としては珍しく光ファイバーが整備された街でした。ここでインターネットに初めて出会って、僕は勉強もせず、インターネットにドハマリし、寝ないでプログラミング漬けの生活を送っていました。
頭の中はインターネットで頭がいっぱい。始めたのが映画のメールマガジン「シネマカフェ」の発行
このままだとドロップアウト確定というタイミングで、再び僕にとっての原点、ニューヨークに戻り、インターンシップで、ニューヨークのキタノホテルという北野建設が経営しているホテルにてしばらく働かせてもらうことになりました。そして、そこで貯めたお金で一度、日本に戻ってきたのです。
20歳で帰国しましたが、すぐにでもアメリカに戻りたかった。一方で、頭の中はインターネットで頭がいっぱいで、何かやってみたい、と始めたのが映画のメールマガジン「シネマカフェ」の発行でした。
それをたまたま読んでいたのが、ソニーの人事の方で、「映画がわかって、英語ができる人を探している」と誘われ、ハリウッドのデジタルシネマビジネス開発チームにプロフェッショナル採用枠で入社することになりました。いわゆる嘱託採用で、本社勤務では最年少の社員でした。
またアメリカに戻るつもりでしたが、まずはお金がないと戻れない。ソニーは大企業であり、年俸もとてもいい額を提示いただいたので、日本企業も見ておいたほうがいいかな、と思って入社しました。でも、いろいろなことの決定のプロセスが複雑すぎて馴染めませんでした。
上司からは10年はこのポジションは安泰だと言われましたが、僕が思ったのは、それでは11年後に困ることになるな、ということでした。結局、1年で会社を去ることを決断しました。
ショービズの最高峰の世界を垣間見たソニー時代
ソニーでは映画事業に携わっていましたから、スティーブン・スピルバーグにも会いましたし、ジェイムズ・キャメロンにも会いました。もともとはコロンビア・ピクチャーズを率いていたトップ、ジェフ・ブレイクの自宅に行ったときはびっくりしました。
スプリンクラー代だけで1ヵ月120万円。本来、コロンビアはソニー・ピクチャーズになったはずなのに、一切ソニーの名前は出さず、名刺も古いコロンビア・ピクチャーズのまま。ハリウッドのプライドだなぁと若いながらに妙な感動をしたのでした。
スタジオ内も、人が歩くところはすべて大理石。ハリウッドというとんでもない世界を知ることができました。人に夢を見させるエンターテインメント、ショービズの最高峰の世界を垣間見る、いい経験をさせてもらったと思っています。
メールマガジン「シネマカフェ」を作るとき、僕は個人事業主になっていました。ソニーを辞めた後、これを法人化したのが、カフェグルーヴです。
当初はちょっとした広告収入しかありませんでしたが、「シネマカフェ」で映画会社に出入りするようになると、僕の中で浮かんだのが、映画のチラシをデジタル化してインターネットのホームページとして情報を掲載することでした。この事業が大ヒットしました。
当時はそれを手がける会社がなく、ライバルがやってくるまでは、独壇場になりました。映画のチラシからホームページでの宣伝へ。制作費は1タイトルあたり200万~500万円程度で、大きな利益を手にすることができました。
なぜ他の国の20倍もの値段で、フランス映画を売りつけられてしまうのか
一方でインターネットメディアをいくつか立ち上げ、映画館の座席指定ができるモバイルオンラインチケットのサービスを立ち上げたり、幕間の広告のデジタル広告化に取り組んだり、と世界に先駆けた取り組みをいろいろと進めていました。
そして最終的に思うようになっていったのが、自分が買い付けてきた映画を配給していきたい、という思いでした。
最初に買ったのがフランス映画で、その後もカンヌなどに頻繁に行き、8割はフランス映画を買い付けました。ただ、日本人が買うとなぜかフランス映画は高いのです。メキシコに映画を販売するときと、日本に販売するときでは、価格が10倍も20倍も違うのです。
どうしてメキシコの値段で売ってくれないのか、と聞いてみると、マーケットの違いだ、などと口を濁される。要するに、カモられているのだと僕は思いました。
実際、日本の大手映画会社や大御所の買い付けチームは、大変な接待を受けていました。パリやカンヌでフランス料理を食べ、シャンパンを飲み、葉巻を吸って大歓待されているのです。
なるほどそうか、と思いました。逆にこっちが大接待をしたら、もっと安く映画が買えるのではないか、と。
そこで、後に表参道に作ったのが、会員制のフレンチレストラン「COPON NORP」です。これは、「NO POPCORN」という言葉のアナグラム(文字をいくつか入れ替えて別の意味を作る言葉の遊び)です。フランス人には大ウケしました。
さらに、シャンパンや葉巻を扱うビジネスもスタートさせました。この3つがセットになったほうが、喜んでもらえると思ったからです。フランスの映画関係者を、ここで大歓待しました。
業界の先輩たちは、苦々しく思っていたと思います。怒られたこともあります。日本人バイヤーとしての全体の価値観が下がるからやめてくれ、と。このとき感じたのは、日本人は「海外でこれをやってはいけない」と教わったことを忠実に守ってしまう、ということです。でも、それでは何も変わらないのです。
こちらに有利に交渉しようと思ったら、あの手この手で売り込んでいくしかない。競争が激しくなっているなら、なおさら。同じやり方をしていて、うまくいくとは限らないのです。