縁起が良さそうな遣唐使伝来「清浄歓喜団」
最近では「スイーツ」と呼ばれるお菓子やケーキですが、古代のお菓子は間食としての木の実や果物「果子」でした。そこにはやはり願いが込められ、『日本書紀』にはこんな逸話が残ります。
3世紀頃とみられる第11代垂仁天皇の御代。田道間守(たじまもり)が、病に見舞われた天皇の命を受けて不老不死の霊菓「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を探し求め、常世の国へと旅に出ました。10年の歳月をかけてようやく非時香菓を手に入れ、帰国したものの、天皇はすでに崩御。嘆き悲しんだ田道間守は、天皇が眠る墓前で非時香菓を握り締めて亡くなったといいます。
この逸話から、田道間守は菓祖としてあがめられるようになり、昭和に入って吉田神社に田道間守を祭神とする菓祖神社が創建されました。ちなみに、芳しい香りを放ったという「非時香菓」の正体は、今では柑橘の橘(たちばな)の実と考えられています。
さすがにこれほど昔の菓子は思い当たりませんが、奈良時代になると遣唐使によって唐菓(果)子(からくだもの)が伝来します。米や麦、大豆、小豆などをこねて油で揚げたりしたもので、神仏に供える菓子として重用されました。
祇園にある江戸初期創業の和菓子店「亀屋清永」の代表銘菓「清浄歓喜団」は、ハッカ、ニッキ、丁子など清めの意味を持つ7種のお香を練り込み、ゴマ油でカリッと仕上げた揚げ菓子。1000年以上昔の唐菓子の姿を残します。“清浄歓喜”って、なんだか縁起の良さそうな気配が伝わってきますね。
鎌倉時代になると、和菓子には欠かせないお茶が登場します。宋での修行を終えた栄西禅師がお茶を日本に持ち帰り、「茶は末代の養生の仙薬…」から始まる喫茶の指南書『喫茶養生記』を執筆。お茶と一緒に饅頭や羊羹を食べる「点心」の文化が生まれました。
当時はまだ砂糖が希少で、甘みのないものが一般的。この頃宋から伝来した「羊羹」は、もともと羊の肉が入った汁でしたが、日本では羊肉の代わりに麦や小豆の粉などを用い、現代の「羊羹」の原型となりました。
京都の夏の羊羹といえば、作家水上勉も愛した「くずきり」で名高い鍵善良房(東山区祇園町)の夏限定「甘露竹」、同じく祇園の甘泉堂「水ようかん」、甘党茶屋 梅園の新展開「うめぞの茶房」(北区)が生み出した羊羹×洋素材の「かざり羹」などがおすすめです。
16世紀になると、鉄砲やキリスト教とともに、カステラ、金平糖、ボーロなど砂糖を使った「南蛮菓子」が伝来します。1569(永禄12)年、織田信長は宣教師ルイス・フロイスから贈られた金平糖を食しました。2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、信長に伴って上洛した家康が、苦心して手に入れた「コンフェイト」を巡って将軍足利義昭とひともんちゃく起こしたシーンが描かれていましたね。金平糖の専門店・百万遍(左京区)の緑寿庵清水は19世紀半ばの創業で、皇室御用達として有名です。