聞き手は、当時のダイヤモンド社顧問(後に会長)の星野直樹だ。戦時中は満州国の行政トップに当たる満州国国務院総務長官で、戦後はA級戦犯容疑をかけられ、東京裁判で終身刑の判決を受けるも後に釈放され、ダイヤモンド社のほか東京ヒルトンホテルや東京急行電鉄などの経営に携わった。

 この頃になると、GHQによって公職から追放されていた人物が、徐々に表舞台に戻ってきていた。河合も星野もそうした経歴を持つ。

1956年3月10日号「時局対談 国民車をわれわれの手に!」1956年3月10日号「時局対談 国民車をわれわれの手に!」
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星野 この頃、天下を騒がしている国民車のことを、お伺いしたいのですが。
河合 なんでも、ざっくばらんに申しましょう。
星野 河合さんが最近、卒然として国民車を唱道されたばかりでなく、自分でやろうというお気持ちになった真意を、一つお聞きしたい。
河合 私も今年は古希でしてね。“あえて老朽をもって残年を惜しまんや”という言葉のように、私も余生を一つ国民の喜ぶことをしたいと、念願しているのです。
 それには、国民に夢と希望を与えることが、非常に大事だと思うのですね。最近、ミキサーや電気洗濯機が出まして、非常に国民を喜ばせている。しかし国民のいちばん大きな夢は、自動車を持ちたいということでしょう。ことに青年層には甚だしい。
 一体、自動車なかりせば、生活がどれくらい停滞したか。これは、私の体験から確言できる。これが、私の国民車というものに考えを持った原因なんです。
 そこへ、突如として通産省の25万円国民車案が出た。既存の自動車業者は、そんな安いものはできないと引き下がった。
 私は、25万円は難しいが30万円前後ならできるという確信の下に、やろうという気になったのです』

 このように河合はやる気満々だったのだが、結果的に国民車構想は幻に終わった。政府支援の下で特定の車種を集中生産するという政策は採られず、富士重工業(現SUBARU)の「スバル360」や、トヨタ自動車の「パブリカ」「カローラ」、日産自動車の「サニー」など、各社がそれぞれ独自に大衆車を開発・発売していった。

 一方、コマツの自動車事業は大成することなく、70年代には建設機械に専念することになる。

【45】1957年
洗濯機、冷蔵庫、テレビ
“三種の神器”普及の楽屋裏

 1956年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言したように、終戦から10年余りがたって戦争の痛手も次第に回復し、国民の生活水準は向上していった。「神武景気」と称される好景気の中で、急速に需要が高まったのが家庭用電気機器だ。50年代後半には、電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれて普及し始めた。

 1957年10月21日号「“三種の神器”の楽屋うら」と題された、東芝専務の平賀潤二(後に副社長)の談話記事が掲載されている。

1957年10月21日号「“三種の神器”の楽屋うら」1957年10月21日号「“三種の神器”の楽屋うら」
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『現在、日本人の一般の収入は、総理府の統計によると平均1世帯あたり2万7800円か900円です。そのうち、たべるものに40%、着るものに20%使うから、家具什器を含む暮らし向きには5%ぐらいしか支出できない。1世帯あたり、1000円ちょっとというところです。
 この1000円のうち6割くらい――600円が電機器具を買っていただいているとして、お客様が月に1000円札1枚、それも400円おつりを差し上げて、これだけの電機ブームが起こっているのですから、生計費が向上するにつれ、もっとすごくなるだろうとわれわれは欲目に考えています。
 電機器具というものは文化のバロメーターです。皆さんの御家庭にある、モーターの数がその国の文明の度を示すといわれております。
 電気カミソリ、ミキサー、冷蔵庫、洗濯機、井戸ポンプ……お数えになってみて、7種類ぐらいお持ちになっている御家庭ですとこれはご立派なご家庭で、私のほうの上得意ですが(笑)、だんだんこれが進歩していくに違いない。
 ですから日立さん、三菱さんのような、いままで軽電機に縁のなかった会社も、ますますこれに力を入れてきています。
 私が考えますのに、日本の電機メーカーの勝負は軽電部門において決まるのではないか……。重電機の勝負は、需要におのずから限りがある。
 そういうことを各社ともよくご存じですから、軽電に非常な力を入れてきているのでしょう。まさに、オーバープロダクションに向かって、一斉にばく進しているわけです』

 記事のように、当時は「家電」よりも、「重電」に対する「軽電」という用語が一般的だった。松下電器産業(現パナソニック)や東京通信工業(現ソニー)、早川電機工業(現シャープ)などの軽電メーカーに対し、重電の芝浦製作所と軽電の東京電気が合併して発足した東京芝浦電気(現東芝)や、日立鉱山で使う電気機械を祖業とする日立製作所、三菱造船の電機製作所を母体に発足した三菱電機などは重電メーカーというイメージが強かった。

 家電ブームに乗って各社が入り乱れ、技術でもしのぎを削ることで、日本は「家電大国」への道を進んでいくことになる。