【47】1959年
欧州から押し寄せた
為替・貿易自由化の波

 1958年の年末も押し迫った12月29日、英国、西ドイツ、フランスをはじめとする欧州主要9カ国が為替取引の自由化に踏み切った。戦後の経済復興が進み、IMF(国際通貨基金)とIBRD(国際復興開発銀行)を中心とする国際金融システム(ブレトンウッズ体制)の安定が確立し、OEEC(欧州経済協力機構:現OECD)やEEC(ヨーロッパ経済共同体)など国際協力の枠組みも強化される中、貿易自由化の推進は世界の潮流となっていた。

 戦後、輸入制限と為替管理に守られてきた日本も、昭和30年代に入って急速な経済成長を遂げるにつれ、輸入制限政策に対する国際的な批判や貿易自由化への要請が高まってきた。こうした動きを捉え、「ダイヤモンド」は年明け早々の59年1月17日号の社説で「為替自由化の大勢に乗り遅れるな」と警鐘を鳴らしている。

1959年1月17日号「為替自由化の大勢に乗り遅れるな」1959年1月17日号「為替自由化の大勢に乗り遅れるな」
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『西欧諸国は、ついに懸案だった通貨の自由変換性回復を実施した。これを契機に、自由世界は為替、貿易の自由化を大前進させ、その経済繁栄を通じて社会福祉の増進に一段の努力を尽くすであろう。
 わが国も、円の自由交換性回復を自由陣営の一員として、当然考うべきところである。しかし、それに先立ち今日の日本経済のガンともいうべき、厳重な為替管理、貿易管理を、自由化の線に沿って大改革することが必要だ。
(中略)
 こそくな改正で事をすませるなら、自由化を推進する西欧諸国から、やがて手痛い反撃を食らうであろう。
 わが国がその範とする西ドイツは、今回完全自由交換性回復に踏み切った。世界驚嘆の経済発展を遂げているだけに、その自信のほどが肯かれるが、それに引き換え、日本の後進性はまことに慨嘆にたえないものがある。
 それというのも、ひとえに政治の悪さに原因がある。西ドイツの繁栄は、政府と国民の相互信頼の上に築きあげられたものだ。ところがわが国にはそれがない。
 為替、貿易の自由化といい、経済繁栄といい、結局は政治の所産である』

 その後も、矢継ぎ早に為替・貿易自由化に関する論陣を張っていく。59年5月9日号「為替自由化と真剣にとりくめ」、同6月20日号「外貨導入を阻む規則は勇敢に取り除け」、同6月27日号「外貨予算に貿易自由化の線を打ち出せ」、同9月19日号「為替・貿易の自由化に政府・業界の奮起を望む」など、多くの論稿や記事を掲載している。

 誌面でさんざん非難を浴びせた政府が、ようやく動くのは翌60年からだ。60年6月、「貿易為替自由化計画大綱」を決定し、これを契機に開放経済体制への移行を目指すこととなる。