【46】1958年
日の丸油田を掘り当てた
アラビア石油・山下太郎

 かつて、中東に自前の油田を持ち、石油を採掘していた日本企業がある。アラビア石油である。

 アラビア石油を設立した山下太郎は、戦前にオブラートの製造販売、ブリキや缶詰などの輸入事業、南満州鉄道の社宅建設で成功した人物。山下は戦後に無一文となったが、裸一貫でサウジアラビアとクウェート両政府との交渉に臨み、1957年にペルシャ湾の海底油田の採掘利権を獲得した。

 山下は稀代の“山師(投機家)”であり、「山師太郎」「満州太郎」「アラビア太郎」とその時々で愛称が変わる、規格外の経営者だった。

 資源小国・日本にとって、“日の丸油田”を持つことは悲願に近い。中東での油田開発に際しては、資金調達の面では日本興業銀行頭取の中山素平が銀行団融資を取りまとめ、社長である山下の後ろ盾として当時の経団連会長だった石坂泰三が会長に就任して、国内の有力企業からの支援を取り付けた。

 1958年11月22日号に「アラビア石油・地震探鉱で油層確認」という記事が載っている。地震探鉱とは、爆薬などを使って人工的に起こした地震波を観測し、地質構造や地下資源の有無を調べる方法。試掘に先立って行った地震探鉱の結果、海底に石油層があることがほぼ確実となったという内容だ。

1958年11月22日号「アラビア石油・地震探鉱で油層確認」1958年11月22日号「アラビア石油・地震探鉱で油層確認」
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『試掘の結果が成功すれば、いよいよ明後年には本格的採油ということになる。
 すでに、レンタル(借地料)年300万ドル(アラビア150万ドル、クウェート150万ドル)が支払われている以上、採掘は早ければ早いほどいい。
 採掘開始後の純益折半率は、当初の約束どおり、アラビア政府に56%、アラビア石油が44%となっている。
 この率について、「とやかく批評もあるが、運搬その他を考慮すれば、十分外貨の節約ともなり、損はない」と述べている。
 すでに、現地には技術担当常務・船越竜氏(帝石出身)、顧問・上床国夫氏(元東大教授)が乗り込み、着々、その指導にあたっている。
 また、東京本社でも、会長・石坂泰三氏、社長・山下太郎氏のもとに岡崎勝男氏、椙杜正太郎氏、菅野義丸氏と、常務陣が強化され、万全の策を立てている。
 資金も目下、設立当初の資本金35億円(授権資本100億円)があり、一応、試掘の段階までは不安はない。
 本格的採掘ともなれば、とてもこれくらいの資金では不足だが、会長石坂泰三氏、社長山下太郎氏の手腕をもってすれば、資金的に行き詰まるなどということはなかろう。
 本格的採掘がいつになるか、現段階では、まだ明確に予測できない。だが、着々、成功へ向かって進んでいることは事実だ』

 この後、晴れて開発に成功、61年に生産が開始された。日本の石油の安定供給に貢献し、利益額では石油元売り最大手の日本石油(現ENEOSホールディングス)をはるかにしのぐ存在となった。60年代後半から80年代にかけては、トヨタ自動車や日立製作所などを抑え、何度も経常利益ランキングで日本一となり、高収益企業としてその名をとどろかせた。

 しかし、山下が67年に没した後のアラビア石油は、高収益ではありながら、通産官僚の天下り先のような位置付けとなり、初期のバイタリティーを失っていく。2000年に期限を迎えたサウジとの利権契約の延長に失敗、03年にはクウェートとの利権更新もかなわず、事業からの撤退を余儀なくされてしまった。