1913年に(大正2)に創刊した「ダイヤモンド」は、2024年に111周年を迎えた。そこで、大正~令和の日本経済を映し出す1年1本の厳選記事と、その解説で激動の日本経済史をたどる「111年111本」企画をお届けする。第8回は高度成長期、1956~60年までの5年間だ。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
【44】1956年
幻の「通産省・国民車構想」
最も意欲的だったコマツ
1955年5月、通商産業省(現経済産業省)から「国民車育成要綱案(国民車構想)」が示された。「最高時速100km以上」「乗車定員4人、あるいは2人と100kg以上の荷物」「販売価格25万円以下」など、一定の要件を満たす自動車に対して、国がその製造と販売を支援し、普及を促すという内容だ。世界の先行例では、ナチス・ドイツが戦時中に進めた「フォルクスワーゲン(ドイツ語でフォルクスは国民、ワーゲンは車)」構想がある。
しかし、これに国内自動車メーカーで構成される自動車工業会は、特定企業を優遇する政策に反対する意思を表明し、何よりコスト的に不可能だと主張した。
そんな中で、意欲を表したのが小松製作所(コマツ)だった。当時、コマツはすでにダンプカーの生産に乗り出しており、小型車の開発も準備していることを発表したのである。
1956年3月10日号には、コマツ社長・河合良成のインタビューが掲載されている。河合は、農商務省の元官僚で農林次官を務めた後、戦後に第1次吉田内閣の厚生相となった人物。47年からは経営不振だったコマツの社長に就任し、再建に当たっていた。