【90】2002年
勢いを失う“家電王国”
台頭する韓国・中国メーカー

 2000年代初頭から、日本のお家芸だった“家電”が力を失っていく。家電製品がデジタル化する中で、韓国のサムスン電子や中国のハイアール(海爾集団公司)といった電機メーカーが急速に技術力と営業力を高めていった。

 2001年11月3日号では、日本ではまだ無名だったハイアールの張瑞敏会長に現地インタビューを行っている。日本進出について張会長は「日本は家電強国であり、米国やEUのように殴り込みでは進出できません。日本のメーカーと提携する方法で市場に入ろうと考えています。日本企業と真っ向から競争するような方法では失敗するでしょう。ちょうど日本の家電メーカーも製造基地を中国に移し始めていますし、互いに提携を結ぶいい機会です」と答えている。

 一方サムスン電子は、半導体やディスプレー技術でいち早く躍進し、2000年度には純利益6兆0145億ウォン(1ウォン=約0.1円:当時)を計上してトヨタ自動車の同4713億円を抜き、2002年4月にはソニーの時価総額を抜くという、日本企業を圧倒する存在となった。2004年には液晶テレビ市場で世界トップのシェアを獲得。対する日本の家電メーカーは市場シェアを失い、再編や縮小を余儀なくされた。

 02年9月28日号では「利益でトヨタを抜いたサムスン電子『闘う経営』」と題して、サムスン電子の強さの秘密を探るとともに、IT強国になりつつある韓国の現状をレポートしている。

2002年9月28日号「利益でトヨタを抜いたサムスン電子『闘う経営』」2002年9月28日号「利益でトヨタを抜いたサムスン電子『闘う経営』」
PDFダウンロードページはこちら(有料会員限定)
『2002年5月、一機のジェット機が関西国際空港を離陸した。韓国へ針路を取ったこのサムスン専用機の機内には、三洋電機の井植敏会長がいた。目指すはサムスン電子の本社である。
 さかのぼること33年前の1969年、サムスン電子は創業の年に三洋電機と合弁企業を設立。最初に作った製品は“SANYO”ブランドのトランジスタラジオだったという。
 三洋電機はサムスン電子の“師匠”として、手取り足取り技術や経営手法を教えてきた。
 当時、海外本部長だった井植会長はその陣頭指揮を執った張本人だった。李健熙・サムスン会長は「当時のお礼がしたい」と井植会長を招待したのだ。
「30年間に及ぶ“師弟関係”がついに逆転」
 韓国の有力日刊紙「朝鮮日報」は、井植会長の訪韓を「三洋電機の会長がサムスン電子を学びに来ることは、「韓日逆転の象徴」と誇らしげに報じたものだ。
 その認識は決してオーバーではない。2001年度の三洋電機の売上高は約1.1兆円なのに対し、サムスン電子は3.2兆円と3倍、営業利益は三洋電機76億円に対しサムスン電子は2300億円(すべて単体)と30倍もの数字になる。
 井植会長訪韓の4カ月前の2002年1月、三洋電機はサムスン電子と燃料電池などで再び技術提携をしている。サムスンの強さを知り尽くしている井植会長は「サムスン電子に置いていかれたら困る」という強い危機感を持っている。まさに師弟の立場は逆転しつつある』

 特集では、サムスンの技術力を支えてきた100~200人に及ぶ「日本人顧問」の存在も伝えている。日本メーカーから高待遇でスカウトされ、技術供与を行ってきた者たちだ。そうした“師弟関係”は完全に逆転した。

 記事に登場する三洋電機は、02年2月にハイアールとも提携し、三洋ハイアールを設立。その後、経営危機に陥ると、再建の過程でパナソニックの子会社となり、白物家電(冷蔵庫・洗濯機)事業はハイアールに売却された。また、シャープは台湾の鴻海精密工業(フォックスコン)に、東芝の白物家電事業は中国の美的集団(ミデア)の傘下に入った。