乙社で働くなら、退職金は出せない
9月下旬。夏休みが終わり出社したAは、C課長にいきなり「10月いっぱいで会社を辞めさせてください」と申し出た。突然の退職話にびっくりしたC課長がしつこく理由を尋ねたので「実家の母親が病気なんです」とうそをつき、退職届を受理してもらった。
次の日、AはD部長に呼び出された。
「今朝、C課長が君の退職届を持ってきたよ。実家のお母さんが病気なんだって?ウチでもっと働いてもらいたいけど、そんな理由では仕方がない。戻ってお母さんを安心させてあげなさい」
「すみません」
「それで、新しい会社は決まったの?」
「はい。11月から乙社で働くことになりました」
「乙社だと!」
「ご存じなんですか?」
「乙社もウチと同じお菓子メーカーで、「○○せんべい」とか「××あられ」とか作ってる有名な会社だ。確か九州地方に大規模な工場を建てたとかで、業界では話題になっていたな……」
D部長の顔が急に曇った。
「君には気の毒だが、乙社は同業他社への転職になるから退職金は払えない」
「えっ、どうしてですか?」
「君が入社した時に『企業秘密を守るため、同業他社で副業をしたり転職しない』旨の誓約書をもらったし、就業規則にも『同業他社に転職した場合は、競業避止義務違反として退職金を不支給にする』と書いてあるでしょう?これは会社の決まりだよ」
退職金を引っ越し費用に充てるつもりだったAは食い下がった。
「でも、同業他社だったら何でもダメなんですか?第一、都内と九州では距離が離れているし、自分はただ機械を動かしているだけで、会社の秘密なんて知りませんよ。だから退職金を下さい」
「しかし、これは私の一存ではなく会社の方針だから変えられない」
Aの意見を突っぱねたD部長だが、Aがいなくなると、「果たして自分が説明したことは正しかったのか?」と迷い始めた。それは、正社員全員に競業避止義務の誓約書を取っているものの、これまで副業時や転職時に問題になったことは一度もなく、内容を深く考える必要がなかったからだ。Aの反論が心に引っかかったD部長は、確証を得るためE社労士に相談することにした。