坂神電気鉄道グループからは、鉄道として再出願を求める意見もあったが、せっかく得た特許を返上しては計画が遅れるばかりか、再度特許を得られる見込みもなかったため、軌道のまま計画を進めることになった。
乗客の要望に応えるために
堂々とスピード違反
しかし、阪神は電車による都市間輸送を諦めなかった。軌道条例の枠の中で可能性を追求するため、インターアーバン(都市間電気鉄道)が隆盛を極めていたアメリカに技師を派遣し、最新の技術、営業制度を研究した。
今ではニューヨークなど大都市の地下鉄を除き自動車と航空機が交通の中心を占めるが、当時は郊外に多数の電鉄会社があり、「日本独自の私鉄ビジネスモデル」とされる経営手法も、多くは先行するアメリカを範に取ったものであった。
路面電車に厳しい速度制限が課されているのは、道路を共有する人や車両の安全を確保するためだ。併用軌道区間を縮小し、人の立ち入らない専用軌道の比率を高めれば高速運転の可能性がある。
前述の通り、軌道は原則として道路上に線路を敷設しなければならない。特別な許可を得た場合は専用軌道を設置してもよいということになっていたが、あくまでも例外である。法令の趣旨を踏まえれば、併用軌道が主、専用軌道は従でなければならない。
ところが、そこに思わぬ助け舟が出た。内務省の土木官僚であり、逓信次官(当時、鉄道は逓信省の所管だった)の古市公威が「軌道のどこかが道路上にあればよい」との解釈を示したことで、軌道ながら併用軌道を従とすることが認められ、路線長約32キロのうち約27キロが専用軌道となった。
こうして阪神は、当時の鉄道計画としては異例となる12年もの「懐妊期間」を経て1905年4月、神戸三宮と大阪出入橋(現在の梅田~福島間に位置した仮の始発駅)間に開業した。
当初、大阪~神戸間を12分間隔で所要時間90分だったが、翌5月には10分間隔で80分、9月には9分間隔で72分と段階的にスピードアップした。官設鉄道は同区間を50分程度で結んでいたが、運転本数は1時間に1本もなかったので阪神に太刀打ちできなかった。