特許の条件は最高速度時速13キロであり、約32キロの路線を全速力で走り続けても90分で走ることはできないはずだが、阪神は堂々とスピード違反をしていた。
『阪神電気鉄道80年史』は、「当社に対しては、『其筋』からときどき速度違反の注意があった。しかし、実際問題として法定の速力制限は実質的意味を持たず、乗客の要望に応えるために、できるだけ早い運行を心掛けていたのである」と述べており、誇らしげですらある。
もちろん車両に速度計が付いていないような鉄道黎明(れいめい)期のエピソードであり、現代的な「法令違反」とは比較できない。むしろ従来の法令では対応できなかった分野を阪神が開拓したことで、鉄道と軌道の垣根がなくなり、関西では京阪電気鉄道、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)、関東では京成電気軌道(現・京成電鉄)や京王電気軌道(現・京王電鉄)の登場を促し、私鉄の基礎を作った。
阪神タイガース初の「日本一」から
10年ごとに直面した苦難
そんな阪神は、阪急より早く沿線開発に着手し、割賦販売方式(住宅ローン)を取り入れるなど、関連事業を積極的に展開したが、現代に続く一大ブランド、阪神タイガースの前身である「大阪野球倶楽部」が設立されたのは、90年前の1935年12月であった。
タイガースの本拠地である甲子園球場は、阪神が兵庫県から買収した海岸沿いの一帯を開発した「甲子園住宅」の目玉施設として、1924年に開業。すでに高い人気のあった全国中等学校野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)や、アメリカ大リーグ選抜チームとの試合会場として使われていた。
1934年末、読売新聞社が「大日本東京野球倶楽部(後の読売巨人軍)」を設立し、アメリカ遠征を成功させると、プロ野球の胎動が始まった。読売は国内にライバルチームを欲し、日本最大の野球場「甲子園球場」を保有する阪神に白羽の矢を立て、チームの結成を呼び掛けた。
1936年に7球団の加盟で現在のプロ野球のルーツにあたる日本職業野球連盟が発足した。7球団中4球団は新聞社、3球団は阪神、阪急電鉄、西武鉄道(現在の西武新宿線)が母体であり、新聞と鉄道がプロ野球をけん引する構図が1950年代まで続くことになる。
初年度のリーグ戦は、アメリカ遠征中の巨人を除く6球団によるリーグ戦で行われ、阪神は「大阪タイガース」のチーム名で参加した(1961年に阪神タイガースに改称)。
戦後、本拠地制(フランチャイズ)の導入により、阪神は甲子園球場のある兵庫県のチームとされたが、今でも大阪が阪神優勝に沸くように、府県境を越えて愛されるチームである。これは大阪でも神戸でもなく、両都市を股にかける「阪神」というブランドがあったからと言えるかもしれない。
ジャイアンツに次いで歴史のあるタイガースだが、2リーグ制となった1950年以降、日本シリーズを勝ち抜いて「日本一」となったのは40年前、1985年が初めてだった。