80年代後半から90年代半ばまでは、三菱自躍進の時代となった。RV(レクリエーショナル・ビークル)主流の中で「パジェロ」がヒットしたほか、当時「T・N」と称されたトヨタ・日産の両大手を追う「第三勢力」の中で一つ抜け出して、「日産の背中が見えた」と豪語した三菱自トップもいたほどだ。
また、同じ三菱銀行(当時)をメインバンクとするホンダが窮地にあった時に、「三菱自がホンダを買収する」動きが水面下であったことも事実だ。
だが、一方で当時の三菱自は、三菱グループ大手企業と同じように「お公家さん集団」とも言われる、おっとり型の社風だった。この企業風土からか、90年代末の米国工場でのセクハラ問題をはじめとして、国内では総会屋事件、さらには大掛かりなリコール隠し事件などが明るみに出て、一気に厳しい局面に突入した。
結果、2000年代初めに独ダイムラークライスラーによる救済で同社に傘下入りしたが、最終的にはダイムラーは「ふそう」のトラック・バス部門だけを子会社化し、三菱自の経営から離れた。
その時に三菱自の再建を託されたのが、04年に三菱商事自動車事業本部長から三菱自の代表権を持つ常務に転籍した益子修氏だった。翌05年1月には社長に就任し、以来20年に逝去するまで三菱自の実権を握った。つまり、三菱商事と太いパイプを持つ実権者が長らくトップを務めていたということだ。
益子体制でリコール隠し事件からの再建が進んだが、16年の燃費不正問題により三菱自は再び窮地に陥った。そこに助け舟を出したのがカルロス・ゴーン元会長率いる日産だった。16年10月に三菱自を傘下に収めた当時のゴーン氏は、ルノー、日産に加え三菱自の会長も兼務した。ゴーン氏の思惑は、三菱自の会長となることで、日本産業界のエリート集団である三菱グループの「金曜会」(三菱グループの首脳が集まる会合)に入れる栄誉を手にすることだったともいわれる。
なお、現在の加藤社長は、長期政権となった益子体制の後継として19年6月に代表執行役CEOに就任し、21年4月から社長CEOを務めている。生産畑出身の生え抜きで、米クライスラーとの合弁工場や仏プジョーのロシア合弁工場駐在を経験しているほか、CEO就任直前はインドネシア生産合弁会社社長として現場に精通する。プロパーであるものの、三菱商事をはじめ、三菱グループからの信頼も厚いとされる。