すでに引かれたカードを記憶し、そのデータを使って山に残ったカードを推測すれば、単なる山勘ではない決断をすることができる。つまり、ブラックボックスを小さくし、運の要素をできるだけ排除するということです。
カードを記憶し、引かれるカードの確率を正確に計算したうえで勝ったのなら、それでもやはり「運がよかった」ということになるのでしょうか?どこまでが運で、どこからが正確な情報に基づいた決断、あるいは統計を使ったリスク計算なのでしょう?
不幸だと思った日にも
幸運は起きている
そして、運が運んでくるのは「いいこと」ばかりではありません。すんでのところで悪いことを避けられたという形の運のよさもあります。たとえば、自動車事故にあってもほとんど無傷で生き残った人は、自分のことを「運がいい」と考えるでしょう。
もしかしたら死んでいたかもしれないという状況は、考えるだけでもとても恐ろしいものです。運の力や、幸運の下着の力だけではどうにもならないかもしれません。世界はそれほどまでに、偶然性があふれるカオスなのです。
あなたがどこかに座り、この記事を読んでいる今この瞬間も、あなたの知らないところでたくさんのことが起こっています。その中に、もう少しであなたの命を奪いそうだった出来事があってもおかしくありません。あなたはただ、それに気づいていないだけなのです。
私たちの周りではいつも何かが起こっています。そして、それらの出来事にこちらが何らかの手を加えたり、結果に影響を与えたりできないこともしばしばあります。
カジノで勝つこと、高速道路で運転中にすんでのところで事故を免れることは幸運のおかげで、反対にカジノで負けること、実際に何らかの害を被ることは不運のせいです。
ということは、つまり運とは、自分の身に起こったいいことと悪いことを説明する手段にすぎないということになるのでしょうか?
まったくの偶然の出来事に何か意味を持たせるために、私たちは「運」という概念を利用する。そうすれば、何かが理解できたような気分になり、そしてひいてはコントロールできたような気分になるのです(本当のところ、理解もコントロールも単なる幻想ですが)。