「相手の運がよかった」と
思えば自分も傷つかずに済む

「運」という概念が役に立つのは、理解不能のカオスを理解できた気になれるからだけではありません。他人に対しても便利に使うことができます。

 たとえば、自分が成功したのは能力が高いからではなく運のおかげだと説明すれば、成功していない人もそれほど劣等感を持たずにすむでしょう。

 バスケットボールの試合で、終了間際にコートの中央から放ったロングシュートが決まり、チームは逆転勝利した――

 このような場合、シュートを決めた選手が普段からこの距離のシュートをどんなに練習していたとしても、やはり「ラッキーシュート」と呼ばれるのです。

 対戦相手も、たしかに負けて悔しいでしょうが、ラッキーシュートならしょうがないと考えれば、自分たちの非を認めずにすみます。

書影『「運のいい人」の科学 強運をつかむ最高の習慣』『「運のいい人」の科学 強運をつかむ最高の習慣』(ニック・トレントン著、桜田直美訳、SBクリエイティブ)

 このように、「不運」もまた、自分の劣ったパフォーマンスを説明する言い訳になる。失敗を不運のせいにすれば、自分のエゴだけでなく、「世界はこうあるべきだ」という自分の正義も守れたような気分になれるからです。

 これまでに見てきたような例からわかるのは、私たちは運の概念を利用して、出来事に実際は存在しない意味を持たせているということです。そうすれば、自分も他人もいい気分になれる。

 つまり究極的に、運とは神や自然の働きではないということです。私たち人間が、運という概念を創造したのです。理屈や合理性では説明できない物事に、運は何らかの意味を与えてくれる。

 つまり運は、理不尽な現実に対処するためのメカニズムだといえるでしょう。