他人の「評価」なんていらない
育むべきは「問いを立てられる力」

巣籠 大学で教えている立場でもあるのですが、いまの学生が恵まれているなと思うのは、学生時代、私が1ヵ月ぐらいかけて書き上げたプログラムを10分ぐらいで組めてしまう。学校の環境を用いて、圧倒的な効率のよさで勝負してくる。その点、若い子のほうが優秀であることは間違いないし、学びの効率化をできる場を提供しているという点から、学校はあるべきかもしれません。
 ただ、評価軸があるのは、私も違うのかなぁと思っています。評価は人間がするので、どうしても人によって評価の軸がぶれてしまう。私の場合は、課題だけ出してそれができたら「自分の糧になるからよかったね」と話しています。

人生100年時代には「学校」なんていらない!?「つまらなくない未来」の教育とは? 堅田洋資 Yosuke Katada / データミックス代表取締役
外資系大手企業、有限責任監査法人トーマツを経て、2015年に白ヤギコーポレーション入社。2017年2月にデータミックス設立、代表取締役就任。日本では数少ない米データサイエンス修士号を保有し、同社でデータサイエンス人材の育成を行っている。一橋大学商学部卒業、サンフランシスコ大学データ分析学修士。共著に『フリーライブラリで学ぶ機械学習入門』(秀和システム)。

堅田 そうですね。自己評価のためのテストは必要ですが、本来、評価は人が作ったものなので、評価を受けることで、誰かのあるべき基準に縛られてしまう。他人の評価を受け入れつづける限り、自分のモットーを見つけられない。AIの話に戻ると、自分で何をしていいのかわからないので誰かにお願いしたい、そんな誰かの「WHAT」を借りるという状況に陥っているのだと思います。

 教育を否定しているみたいな強い言葉を言ったので、少し誤解されているかもしれませんが、僕は、「学びの場」はいくらでもあるべきだと思っています。人生全体が学びだから、学びの場がなくていいなんてことはありません。
 僕がいう学校とは、いわゆる評価軸があって、いわゆる偏差値があって、テストで人と比較した評価をして運営するような場を指します。そんな学びの場は、本当によくないと思っているのです。
 これからの時代、知識を持っていることに何の価値もない。たとえば、以前なら「ナポレオンの生まれた場所はどこだっけ」と聞かれ、「コルシカです」といえば、「お前はすごいね、博学だね」ともてはやされました。
 でもね、AIが進化すれば、「オッケー、グーグル」とか「アレクサ」と呼べば、知識は得られるのです。グーグルで検索して、「お前、すごいな」とならないように、知識をたくさん持っていることは、どうでもよくなる。
 どんなに複雑な解であっても、それが論理的思考で導かれたものであれば、それはAIでできるので、すごいなと言われないでしょう。すごいというのは、たとえば「問いを立てられる力」です。何かを探求して、問いを立てられるかが求められるのです。
 問いが深まっているかどうかは、自分がわかるはずで、それを他人が評価することに意味はない。他人の評価はまったく無意味になるのです。そんなパラダイムシフトが訪れているのです。
 逆に、大学の研究室やゼミのような、皆で純粋に何かを探求し、問いを深めるような学びの場がもっと必要なのです。