50になっちゃったらどうかな。今行くしかないんじゃないかという瞬間がありました

――膨大な数のポップスの千里ファンたちは、いまだにそのスタジアムの体験を胸に刻んでいると思います。そういうものとすべて別れて、2008年1月にニューヨークにいらっしゃるわけなのですが。しかもジャズ・ピアニストを目指して。47歳。どんな心境でしたか。

大江 10代の頃にジャズのテキストブックを買って勉強し始めても、わからないことばかりだった。どういうふうにスケールを選ぶのか。ジューシーなテンションコードはどうやったらサウンドするのかとか。それでポップデビューのチャンスがきて、一旦ジャズを脇へ置いたんです。

 実は92年頃、NYにアパートを借りて日本と行き来していたんです。結果的に僕が47歳で通うことになるニュースクール音楽大学の前を通るジャズマンの卵たちが友達同士で挨拶をしているのを見たり、すれ違ったりして。いいなあ、いつかジャズを本気で学ぶ日がきたら、そのときはこの大学で学びたいなあって漠然と思ってましたね。

 ニュースクールにデモテープを送って、合格通知がきたとき、これを逃したらもう後がない、直感でそう思いました。50になっちゃったら精神力、体力、どうかな。今行くしかないんじゃないかと瞬間感じたのです。

「よし、行こうかな」と決心したら、ころころころころ転がり出してしまった。「あ、もう行くしかないよ。どんどん信号が青に変わる(笑)」みたいな。

――若い人たちの間に「日本人、47歳、元ポップスター」として入学された経験を『9番目の音を探して』という分厚いエッセイにまとめておられます。素晴らしい環境で学ばれましたね。

大江 はい。ニュースクールは僕が出た後くらいから、マネス大学っていうクラシックの音大と合併しちゃって、大きくなり純粋のジャズのカリキュラムが随分減ってしまったそうです。

 あの頃は僕より少し上の学年に(年はもちろん随分下ですが、笑)、ジャズ界で大活躍中のロバート・グラスパーがいて、ホセ・ジェイムズがいて。僕と同じ学年にはグラミー賞にノミネートされたジャズメイヤ・ホーンとか。最近、Sony Music Masterworksと契約したチリのカミラ・メサとかも一緒のクラスで学びました。

――ニュースクール学校自体の状況も良かったということですね。

大江 はい、過渡期でした。僕がまだなんにもジャズがわからないときに、少し上の卒業生がビッグバンドに誘ってくれて、そこでアメリカ人の中に自然と入っていけた。これが大きかったと思う。そこからの繋がりでアリ・ホーニグと一緒にできたりしたのもその頃だし。そういう経験を通して、純粋にアメリカのジャズの社会でやっていきたいなっていう夢が膨らみました。

――なんでもそうですけど、ジャズは特にそういう誰とやるかという出会いは大きいですものね。

大江 ジャズに限らず人生はタイミング。一回チャンスをミスするともう次のチャンスはなかなか訪れない。だからチャンスがきたって感じたその瞬間、自分のレーダーが働いたらすぐそれに乗っかって動くこと。そして一旦動くとそのスピードを一切緩めない。