農協界のドンで、元小泉チルドレンでもある中川泰宏を語るとき、政敵として立ちはだかった自民党元幹事長の野中広務は欠かすことのできない存在だ。師弟関係から始まった二人は、最終的に完全に敵対し、野中が中川のことを「正面の敵」と公言するまでになった。同志でもライバルでもあった二人は初対面からすでに火花を散らしていた。連載『農協の大悪党 野中広務を倒した男』の#11では、中川と野中の邂逅(かいこう)から、中川が町長として活躍するまでの二人の人間関係に迫る。(ダイヤモンド編集部 千本木啓文)
小泉チルドレンvs政界の狙撃手の戦いは
中川の町長選から激烈化した
「野中さんはおれよりも30歳近くも年上。あの人の存在と野中さんへの反発心がなければ、私は衆議院議員どころか、町長にもなれていなかったかもしれません。野中さんのおかげで僕は有名になったと思っている。野中さんと私は運命の絡みを生きたといえます」
これは野中広務が2018年に逝去した後、大下英治が著した『野中広務 権力闘争全史』に寄せた中川泰宏のコメントである。
「運命の絡みを生きた」というのは中川独特の言い回しで一般的な表現ではない。だが、京都の田舎町の勢力争いから始まり、やがて中央政界をも巻き込むことになった中川と野中の相克を知れば知るほど、「運命の絡み…」という表現がしっくりくるように思えてくる。
中川と野中は共通点が多い。両者とも最終学歴が高卒(同じ京都府南丹市の園部高校卒業)のたたき上げの政治家で、町議会議員、町長、衆議院議員を務めた。
「生きづらさ」を抱えていたことも共通点だった。足が不自由な中川は小中学校時代に壮絶ないじめに遭い、高校進学、就職などで差別を経験した(詳細は本連載の#2『「農協界のドン」が障害があるいじめられっ子から青年実業家に変貌した理由』参照)。
野中も中川同様、差別と苦闘した。野中は被差別部落出身だ。政治を志したのも差別に直面したことがきっかけだった。復員して大阪鉄道局に勤めていた20代の頃、局内の隣室で後輩が「野中さんは大阪で飛ぶ鳥を落とす勢いで仕事をやって、あんな(上席の)ポストを得ているけど、あの人は地元へ帰ったら部落の人や」と言っているのを聞いた。(同志社大学教授の庄司俊作が05年に行った野中へのインタビューより)
発言していたのは野中が最もかわいがっていた同郷の後輩だった。後輩は、野中の推薦で採用し、下宿に泊まらせ、大学にも通わせるほど手塩にかけていた若者だった。
信頼していた後輩の裏切りに、野中は「5日間くらい下宿でのたうち回った」(同)。
野中が被差別部落出身であることは瞬く間に職場に知れ渡り、同僚たちは手のひらを返したように離れていった。
苦悩の末に野中が出した結論は、「俺はいくら大阪で頑張ってやったってだめだ。地元にそういう因習が残り、差別をされる事象が残っているとしたら、これは真っ直ぐ地元に帰るべきだ。(中略)俺がどこの出身か知ってくれた人のところに帰って、そこから出直して、自分を知ってくれたところで生き上がっていこう」(同)というものだった。
野中はその翌年の1951年に園部町議会議員選挙に立候補して当選。その後、大阪鉄道局を退社した。
野中は、被差別部落出身であることを「俺のハンディにしたってしょうがない。それをバネにしてガンバりゃいんだ」(著書『差別と日本人』〈辛淑玉との共著〉より)と考えて権力の階段を上っていった。足の障害が原因でいじめや差別を受けてきた中川が、野中にシンパシーを持つのも当然だった。
中川は「政治家のお師匠さん」と野中を持ち上げて、こう評している。
「野中先生のすごみは勝負どころでの度胸の良さだ。それと人間関係にべたべたしないクールさがある。良く言われた。『俺は一介の田舎もんや。毛並みも悪い』。いわゆるエリートではないが、逆にそれが強みである」(著書『弱みを強みに生きてきた この足が私の名刺』より)。
中川が同著を上梓した02年は、八木町長を務めて10年の節目の年だ。その頃、中川は国政進出を目指していた。自民党の公認を得ようと手を尽くしたが、党の重鎮だった野中がそれを認めず、二人の間は一触即発の状況だった。しかし、それよりずっと前から中川と野中の間は険悪になっていた。
中川と野中はどのように出会い、互いに利用し合う互恵関係を経て、選挙を巡って対立するまでに至ったのか。