画像:特集『京都企業の血脈』#2キービジュアルPhoto:kyodonews

9月2日、日本電産の関潤社長(当時)が解任された。最初に永守重信会長と関氏の関係がこじれたのは、昨年7月のこと。その後、両者は幾度となく対立と和解を繰り返すことになる。特集『京都企業の血脈』の#2では、1年に及ぶ“2人の攻防”を時系列で追った「解任ドキュメント完全版」をお届けする。そして、運命の日は突然やってきた。今年7月1日と4日、永守氏から関氏の元に「2通の通知書」が届けられたのだ。紛れもなく最後通牒だった。その紙切れには、驚愕の文言がしたためられていた。(ダイヤモンド編集部副編集長 浅島亮子)

永守会長は「踏み絵」で絶対服従を要求
関氏がCEO職を務めたのはわずか1カ月

 日本電産の永守重信会長と関潤社長(当時)の間で、ボタンの掛け違いが生じたのは1年以上も前、昨年7月に遡る。永守氏が関氏に最高経営責任者(CEO)を譲ってから、わずか1カ月後のことだった。

 永守氏は関氏にこう言い放ったという。「(小型モータなど事業責任の全権を関氏に委ねていたが、)8月からは車載事業だけをみろ。事業全体は自分がみる。そうすれば業績はたちどころに回復するだろう」。

 永守氏は、車載事業の業績が事業計画から大きく下回っていることを憂慮していた。一方の関氏からすると、車載事業の低迷は外部要因に依るところが大きいと判断していた。ルネサスエレクトロニクスの火災による半導体の調達難に加えて、ベトナムでは新型コロナウイルス感染症が大流行し、日本電産の生産計画に支障を来していたからだ。両者の見解に相違はあるものの、永守氏が押し切る形で関氏が“更迭”された。

 正式には、永守氏がCEOに復帰したのは今年4月である。だが実質的には、この昨年7月時点で関氏はCEO職から追いやられていた。絶対君主を前に、“1カ月天下”だったということだ。

 その後、両者は幾度となく対立と和解を繰り返すことになる。決まって関氏が永守氏の条件をのむことによって、和解はなんとか成立してきた。だが和解の回数を重ねるごとに、関氏の絶対服従を試すかのような「踏み絵のハードル」は高くなっていった。

 次ページでは、1年に及ぶ“永守氏vs関氏の攻防”を時系列で追った「解任ドキュメント完全版」をお届けする。

 両者が最後に和解したのは、今年6月の株主総会直前のことだ。またも仲たがいは収束したかに見えたが、運命の日は突然やってきた。7月1日と4日、永守氏から関氏の元に「2通の通知書」が届けられたのだ。紛れもなく最後通牒だった。その紙切れには、驚愕の文言がしたためられていた。