そんななかで、自民党はパーティー券問題と保守分裂の逆風にもかかわらず、なんとか持ちこたえた。また、かつての共産王国だった京都で低迷していた共産党は、大健闘して田村智子新委員長の初陣を飾った。一方、維新は、政治資金についてはクリーンだという党のイメージを傷つけたというのが、多くの人がマスコミ報道から受ける印象だろう。

 だが、出口調査(京都新聞)の結果や経緯をみると、そんな単純な話でもない。なにしろ、出口調査では自民党支持層のなんと14%が福山氏にも流れていた。12%が村山氏、11%が二之湯氏にも流れているが、保守分裂だけが苦戦の原因ではないことがわかる。おまけに、松井氏は「悪夢のような民主党政権」のなかでもことさらひどかった鳩山由紀夫内閣の官房副長官、しかも官房長官をしのぐといわれたほどの実力者だった政治家である。

 共産党は敵失で善戦したとはいえ、これまでの京都市長選挙と比べるとかなり票を減らし、村山氏の事件がなければ惨敗が予想されていたので、僥倖(ぎょうこう)に助けられただけである。

 維新は結果的には敗れたが、京都で戦える政党になったことを示したし、最悪の状況のなかにしては、そこそこ集票した村山氏は政治生命を維持したし、二之湯氏(前府議。父親は岸田派出身の閣僚だった)も大健闘だった。

 立憲民主党にとっては、自分の系列から市長を出したのだから大成功ではあるのだが、今後に良い展望を見いだしたともいえず、公明党は驚異の団結力で池田大作・創価学会名誉会長の死去でかえって組織が強くなっていることを証明した。

 そうした意味で、この選挙までの経緯と詳細を分析することは、今後の政局を占う上で大いに意味があるので、「どうして古都京都で共産党が強いのか」という謎にも答えつつ、詳細な分析をしたい。

共産党はなぜ
京都で強いのか

 まず、京都の地方政治が、戦後、どう展開してきたか、ざっと振り返ってみよう。

 京都では知事も市長も、蜷川虎三氏(1950~78年)と高山義三氏(1950~66年)という社会党中心の革新系が占めていたが、高山市長は2期目から保守系に転じ、逆に蜷川知事からは社会党が離れたので、共産党が単独与党となった。