小林一三は三井銀行を経て阪急電鉄の経営に携わり、鉄道を起点とした都市開発と、沿線住民の需要を満たす小売業、レジャー、エンターテインメントなどに事業の幅を広げ、宝塚歌劇団、阪急百貨店、東宝などを創業、阪急東宝グループをつくり上げた。そして34年1月に東京・日比谷に東京宝塚劇場を開場し、東京進出の足掛かりをつけたところだった。

1934年2月21日号「私の画く大劇場街と国民劇の将来」1934年2月21日号「私の画く大劇場街と国民劇の将来」
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『私が東京に来て感じたことは、東京に私どもの考えているような明るく、清く、美しい歓楽境がないことです。東京で大衆の集まる所は、ご承知の通り浅草よりない。そこへいくと、大阪では道頓堀、千日前、さらにそれが南の方に延びていって楽天地がある。また郊外には、浜寺もあれば、私の方の宝塚もあり、阪神沿線には甲子園があるというふうで、インテリなり、若い人なりの遊びに行く場所が、相当に充実している。東京にはそれに比較すると、もっと大きな都会であるにもかかわらず、わずかに浅草を数えるにすぎない。
 しかもこの浅草はどうかといえば、あまりに下等である。と言うと語弊があるが、少し低級過ぎて、相当の家庭の人、相当の教養がある人には浅草は食い足りない。そこで私は、東京のどこか適当の場所を選び、そのところに一つ、比較的高尚な娯楽地帯をつくるということは、これからの世の中では必要な事業ではないだろうか、それにはどこがよかろうかということを、多年考えていたのです』

 当時からのライバルで、浅草を地元とする松竹に対し、辛辣(しんらつ)な物言いで挑発している。その後、小林は近隣の有楽座、日本劇場、帝国劇場を手中に収め、37年には東宝映画を設立。もくろみ通り、日比谷一帯を巨大な劇場街に発展させた。

【23】1935年
国際連盟脱退の英雄
松岡洋右が訴えた「昭和維新」

 1935年1月1日号に、「改革の機運迫る35年の日本」と題した松岡洋右のインタビュー記事がある。国際連盟総会で連盟脱退を宣言して席を立った松岡は、国際社会を向こうに回して言うべきことを言った“英雄”として国内でもてはやされた。その後、議員を辞職し、「昭和維新」を唱えて全国行脚する活動を始めていた。

 インタビューは最初、新年号らしく今年の政局の行方を聞く質問から始まっているが、松岡は質問などお構いなしに、持論をとうとうと語り出している。

1935年1月1日「改革の機運迫る35年の日本」1935年1月1日「改革の機運迫る35年の日本」
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記者 現下の政局について、感想を伺いたいのですが、今期議会では、解散が断行されるでしょうか。
松岡 そんなことは問題ではない。それより日本は本年は「昭和雑新」に突進していく。私がそんなことを言うと、普通の人は、それが出来るまでは夢物語としか思わないであろうが、私は本年は日本に大転換の気運が起こるだろうと思う。私はそういう一種のビジョンを持っている。
 明日の日本を誰が背負う。いかなる力が背負う。今観ているところでは水平線以上に現れているものとして、明日の日本を担当する力は、どこにもない。それで他を無定見、無力なりとお互いを罵り合っているが、御本人もまた、これ以上無定見、無力者同志である。
(中略)
 それならばどこにその力があるかと考えると、今日知られておらぬ所に力があるに違いない。これを具体的にいえば、まず大体に五十以下の青壮年の層に幾多無名の傑人がいるに違いない。また無名者の起(た)った時が、それが力になるのだろう。そこに力を求むる以外にはあり得ない。これが私が「青年よ起て!」と言って全国を行脚して歩いたゆえんである』

 そして、「鳥羽伏見の戦いを意味するものが、近いうちに起こるように思われる」と、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争になぞらえて、まるでクーデターをけしかけるような発言を繰り返している。

 当時、五・一五事件で首相を殺した犯人たちを「憂国の志士」として同情する声が高まり、全国で減刑嘆願運動が広がって、実際に減刑されることとなった。政治に対する国民の不信と失望は国家改造運動に結び付き、軍部の暴走を許していく。松岡の発言からも、そんな当時の異常な雰囲気が伝わってくる。

【24】1936年
二・二六事件を機に進む
軍国化と統制経済体制

 1936年2月26日、雪の降り積もった帝都東京で、「昭和維新」を掲げる陸軍皇道派青年将校らがクーデターを企図した。青年将校らは反乱軍として鎮圧されクーデター自体は未遂に終わるが、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。二・二六事件である。

 事件が勃発したのは、ダイヤモンド編集部で3月1日号の原稿執筆を終わり、編集作業を締め切ろうとしている最中のことだった。急きょ、3月5日に発行日を繰り延べ、事件に関する記事が突っ込まれた。事件翌日の27日に東京では戒厳令が敷かれたが、当時のダイヤモンド社は麹町区内幸町の衆議院の通用門の前にあり、危険区域とされたため、決死の覚悟での作業だったらしい。

「事件と新内閣の性質」と題された巻頭レポートには以下のようなことが書かれている。

1936年3月1日号「事件と新内閣の性質」1936年3月1日号「事件と新内閣の性質」
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『事件はひとまず終って、問題は次の内閣がいかなる内閣であり、いかなる経済政策を実行するであろうかという二点に集中されている。
(中略)
 強力内閣ができ、議会と国民の協力を得られるとして、しからば、その断行を必要とする新政策特に経済財政策はどんなものであろうか。
 事件の由来と国家の現状とに照して計画され実行されるだろうことはもちろんだが、その一般的意味においては、おそらく統制経済への躍進であろう。
 統制ということは、数年来、この国に論議されてきたが、何が統制経済であるかについては見る人によりて一様でない。現下の経済機構の本質を自由経済と見るならば、これに対立して自由を制限統制するものが統制経済ということになるから、この範疇にはイタリアのファッショ、ドイツのナチスはもちろんのこと、ソ連邦のボルシェビズムに入れられる。経済学者の中には現にこうした角度からの統制経済を論究しているものもあるのである。
(中略)
 何故に日本経済の現状に統制の必要があるかが次の課題であるが、これは諸々の観点から解答することができる。一言にして尽くせば、自由主義的資本主義経済はすでに行きづまり、このままでは資本力の豊富な英米資本主義経済に対抗しての世界的発展が不可能だからであるが、もっと具体的に言えば、例えば軍事費である』

 今後の経済財政政策は、軍事費の増大の負担に耐えられるだけの国内再生産力の増大と、国防工業とその他の産業との調整、赤字国債をどう消化するかといったことが課題となるが、従来の自由主義的な経済機構のままでは、どの目的も達成できない。資本家の自由意思に任せることはできず、強力な国家統制が必要になると説いている。