【25】1937年
日中戦争突入で軍事費増大
正真正銘の戦時下に入った日本

 1937年7月7日、盧溝橋事件によって日中戦争が始まった。

 第1次近衛文麿内閣では臨時軍事費特別会計が設置され、年間予算とほぼ同額の軍事費が計上された。37年8月11日号では、「事変進展に備える戦時体制」と題した特集が組まれている。「戦時財政への巨歩」との見出しと共に、「戦時経済体制への移行に拍車」とある。

1937年8月11日号「事変進展に備える戦時体制」1937年8月11日号「事変進展に備える戦時体制」
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『逐次、議会を通過した第一号から四号までの追加予算は合計、五億三千七百万円に達し、十二年度予算を三十四億円台に引き上げた。
 追加額中、わずか二千万円のみが行政費分であり、後の大部分は北支事件費に充当されている。この膨大な追加予算の累加によって、我が財政は準の字を捨て、いよいよ戦時体制への巨歩を印することになった』

 32年3月1日の満州国建国宣言以降、準戦時下体制で経済統制が進んでいたが、「準」の字が取れて、日本は正真正銘の戦時下に入ったというわけだ。

 翌38年には国家総動員法が制定され、国民や経済を戦争に総動員する体制が敷かれる。企業や産業は軍需品の生産に重点を置くようになり、民間の消費財生産は次第に制限されていく。

 また、米、衣料、燃料などの生活必需品の自由な市場取引が制限され、配給制が導入されることで国民の生活は厳しく管理される。物価の急激な上昇を防ぐために、価格統制も行われる。娯楽や芸術は統制され、映画、文学、音楽などの文化活動も戦時体制に協力するものが推奨されていくのである。

【26】1938年
戦費の確保は国民から
「貯蓄奨励」という国民運動

 戦時経済の運営において、最初に着手されたのが、日本国内の資金を日中戦争に振り向けるための金融統制だった。日中戦争開始直後の1937年9月に制定された「臨時資金調整法」がそれだ。設備資金の貸し付けと有価証券の引き受け、会社の設立・増資・合併等は政府による許可制とされた。

 38年4月1日には国家総動員法が制定され、政府は経済活動や国民生活を全て統制できる権限を持った。早速始まったのが、政府主導で展開された国民貯蓄奨励運動だ。国債の償還や軍需産業への融資を円滑にするため、国民に貯金を奨励したのである。

 日露戦争の戦費は外債に頼ることができたが、国際社会から孤立している今回はそれは不可能。国内で調達するしかなく、国民の貯蓄に頼るほかに方法がなかったのだ。

 38年5月1日号には蔵相の賀屋興宣が「国民運動としての貯蓄奨励」という原稿を寄せている。同号は「ダイヤモンド」の創刊25周年記念号で、「本編は25周年記念論稿として、特に寄せられたものである」と編集部からの注釈がついている。

1938年5月1日号「国民運動としての貯蓄奨励」1938年5月1日号「国民運動としての貯蓄奨励」
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『政府は長期戦に即して財政経済政策の万全を期するため、去る十九日の閣議において国民貯蓄に関する申し合わせをなし、全国民に対し貯蓄の国民運動を起こすことになり、私もその第一歩として関西、中国、北九州地方の諸都市で講演行脚を続け、国民諸君に訴えたが、この貯蓄奨励の実行に当たっては、中央地方を通じて統一的組織の下に、一大国民運動として行わなければその実効を期待し得られない』

 上記の書き出しで始まり、大蔵省に国民貯蓄奨励局を設け、官民合同の国民貯蓄奨励委員会を設置した旨を伝えている。

 この後、政府は単なる貯蓄の奨励だけでなく、「貯蓄債券」「報国債券」といった戦時国債を盛んに発行し、町内会や隣組を通じて強制的に購入を求めるようになる。