騒動が拡大解釈されて
「子どもは大切か」議論に発展
このモスキート音騒動は本来なら「モスキート音による報復は適切か」や「お隣のプールの音がうるさかったらどうするべきか」といった、個別の事柄に対する評価や個人的感想が議論されるだけでよかった。しかし「子どもと社会」というテーマが世の中の関心事であったがゆえ、そこも混在しながら議論の対象となり、やや拡大解釈されて対立構造が目立つ格好になってしまった。だが、できれば両派がお互いを理解するきっかけとして利用していきたいところである。
たとえば「子どもに優しくするべき」という考え方があり、これは間違っていないと思うのだが、上から押し付けられそうになれば反発したくなるのは人として当然である。幼児の不潔さや小児の未発達な社会性がどうしても好きになれない大人に向かって「子どもを大切に」と伝えるのは、いささか乱暴になりえる。しかも、「子どもは大切に」という大正義(のように見えるもの)を振りかざしてくるそのこと自体も、人によっては少し気に入らなく感じるわけである。
反対に、「子どもを大切に」と考えている人に向かって、「それなら大人も同様に大切にしろ」といった主張をするのも、対立するだけで終わりそうでちょっと議論の先がない。
要は、相手の立場や考えを尊重しながら、お互いのすり合わせを試みるのが理想的で、円満な共存への道である。
しかし、こうした理想論を万人で共有することは現実的でない。私自身は子を持つ親として、社会に対して可能な限り配慮したいと考えているが、社会問題になっている道路族(自宅周辺の道路を占有して遊ぶ子どもや、それを放任する保護者を指す)などもいる。
さらに、親の配慮の姿勢を周り(社会)がどこまで求めるか――という「程度問題」もある。たとえば、電車の中で泣く子をどれくらい許容できるのか。その許容範囲にはおそらく大きな個人差がある。