計画の原型は約半世紀前
実現までの紆余曲折

 そんな相鉄・東急直通線だが、実現には紆余曲折があった。計画の原型となったのは1966年の都市交通審議会答申第9号に挙げられた茅ケ崎を起点に六会、二俣川、港北ニュータウンを経て東京方面に直通する路線だ。

 1972年には都心側の乗り入れ先として都営三田線が候補にあがるが、直後のオイルショックで大規模な開発計画は凍結。1976年から1999年にかけて湘南台~二俣川間が相鉄いずみ野線として開業するにとどまった。

 1980年代に入るとこの構想は二俣川から新都心として開発が始まっていた新横浜、新鶴見操車場跡地の再開発が予定されていた新川崎、川崎駅を経由して羽田空港方面に向かう路線と、新横浜から分岐して大倉山駅から東急東横線に直通する「神奈川東部方面線」としてまとめられた。

 しかし新横浜~川崎駅~羽田空港間の建設は頓挫し、東横線直通計画だけが生き残る。2000年の運輸政策審議会答申第18号で神奈川東部方面線は二俣川~新横浜~大倉山間のみに縮小されたが、それでも巨額の建設費のめどが立たず、実現性は低い計画と思われていた。

 ところが相鉄は本気だった。バブル崩壊後、私鉄各社は輸送人員の減少に見舞われたが、都心回帰の傾向が見えてくると明暗が分かれてくる。都心に直通する路線では減少が底を打ったのである。都心に乗り入れない相鉄にとって、これは致命的だった。

 相鉄は2000年以降、都心乗り入れの検討に着手するが、本来の「本命」は相鉄・JR直通線だったようだ。この構想が初めて世に出たのは2004年9月に神奈川新聞が報じた記事であった。

 確かに相鉄からすれば出来るだけ少ない投資で都心直通を実現したいのが本音で、巨額の費用を要する相鉄・東急直通線には消極的だった。これは当時の相鉄運輸本部長が語っていた内容からも明らかだ。しかし横浜市と東急はこれを看過できなかったようで羽沢横浜国大~日吉間もあわせて建設することになった。