愛知県出身者による
支配の実態
愛知県出身者支配という実態を、もう少し分析してみようと思う。
江戸300藩といっても、幕末から廃藩置県までの間に出入りがあるので、数え方で少し数字が違ってくるのだが、広めに捉えて279藩とすると、その内訳は三河が44%、尾張が12%、美濃が7%で計63%に上る。さらに近江の4%、伊勢、志摩、遠江、駿河、信濃、甲斐までの織田・豊臣・徳川の地元と周辺を含めれば75%にもなる。
これを関ヶ原の戦いのころ、つまり、豊臣大名についても計算してみると、尾張29%、三河は1.4%(この段階では徳川の譜代大名は、まだ、徳川家の陪臣だったから1万石を超えても大名扱いにならない)、美濃が16%、近江が10%で、濃尾地方の優位は変わらない。
ちなみに、戦国時代から幕末までほぼ動いていないのは、松前、津軽、大関、大田原、諏訪、宗、五島、松浦、大村、鍋島、島津の各家くらいのものだ。
伊達家の先祖は栃木・茨城のあたりから出て、福島の伊達郡の地頭になって定着し、その地名を名字にした。その後、米沢を経て仙台へ移った。毛利家は大江広元の子孫で相模の毛利荘の地頭になったあと安芸に移り、関ヶ原の戦いのあとで長州へ移った。だから、この両藩の上級武士はそれぞれ福島と広島の土豪が多く、宮城や山口の人は少ない。
大名などを他の領地に移す移封のときは、家来はすべて連れて行くのが原則であるし、そもそも、殿様の出身地の親戚や仲間が上級武士の主力だ。ただ、石高が増えたら新規採用するし、減ったらリストラした。ただ、その場合に現地採用するのかといえば、あまり好まれなかった。むしろ、同じ時期に改易や減封された大名の家臣を採用することを、幕府も治安維持の観点からも好んだ。