岸田政権が「防衛増税」の実現に動く今も、軍事研究に反対するビラは増えている。学術会議からの静かな圧力が、学問の現場でさらに拡大しているのだ。

 その結果、より自由な研究環境を求める優秀な若手は、日本に愛想をつかして海外に流出してしまっている。

 要するに、学術会議は政府に対して「学問の自由」を主張しながら、内部では「学問の自由」を抑え、批判を許さない態度を取っているのだ。

報道における「政治的公平」の意味を
もう一度問い直すべき

 話題がやや脱線したが、日本では保守・リベラルを問わず「自由」を都合よく解釈し、言いたいことは存分に主張する一方、自らへの批判を許さない組織が多いのだ。

 野党には「総務省文書の正当性」や「高市氏の進退問題」ばかりに目を向けるのではなく、自らがこうした風土に陥らないよう、自浄作用も働かせてほしいところである。

 海外に目を転じれば、中国、ロシアや新興国などに広がる「権威主義政権」は、権力への批判を封じ込めるのに必死だ。自らの主張は言いたい放題だが、自らの失敗は絶対に認めないし、批判を絶対に許さない(第321回)。

 権威主義社会では、権力者の間違いを正すには、多くの人が傷つかねばならない。最悪の場合は「革命」を必要とする。

 一方、日本のような自由民主主義社会は元々、自由かつオープンな環境で、お互いに批判し合い、間違いを修正しながら発展していける社会だったはずだ(第299回)。

 権威主義社会と比べると、言論の自由の下に、選挙などの民主的なプロセスで間違いを正せる自由民主主義社会の健全性は明らかだ。

 報道における「政治的公平」とは、公平性を盾に自らへの批判を封じ込めることではなく、「公平に批判する自由」を尊重することではないか。このことが自由闊達な社会の発展にとって重要であると、筆者は考える。