全国大会に出てセッターを務めるほどの実力を持ちながら、バレーを特に楽しいと感じていないといったことを公言する彼と、その彼を巻き込み支えるチームメイトたちや、その彼に「楽しいと言わせてみせる」と意気込む原作主人公、どの視点からでも感情移入させてくれるこの映画だが、劇場版主人公の彼がバレーとどう関わっていくかが、大きな見どころのひとつであろう。
全編を通して「スポーツとはかくあるべき」と言いたいくらい、曇りなき爽やかさに彩られていて、人の情熱とでもいうべき部分が抽出して伝えられている。バレーの勝ち負けを通じてやり取りされるその情熱は、バレーに限らず趣味や仕事にも共通して見られる人間の本質であり、劇場版ハイキューはやはり、「情熱とは何か」を思い知らせてくれ、また己のうちにあるそれを思い出させてくれる名作であった。
心のひだをくすぐられる
得がたい鑑賞体験
映画ライターの2号氏が本作について興味深い指摘をしていた。筆者の言葉になってしまうが、要約して紹介させてもらうと、試合が決着して敗者となった登場人物たちの青春が一段落(3年生の選手は引退)する強制性と、劇場に足を運んだ人が上映終了と同時に映画館から現実に放り出される強制性、この両者に強くリンクする部分があり、映画鑑賞者は登場人物の感情を一部追体験できる、というものである。
「終わってほしくない」と最中に願うような珠玉の時間が終わりを迎えれば、そのあとは得てして寂しさや切なさを覚えるものだが、これらは必ずしもネガティブな感情ではなく、心のひだをくすぐるような、なかなか得がたい心の作用である。劇場版ハイキューは、映画館で観ることでこそこれらをより鮮明に体験することができる。
【参考】『ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』に詰まった青春の最盛と終焉 完璧な“試合映画”に
https://realsound.jp/movie/2024/03/post-1590182_2.html