法然上人の生涯とゆかりの地

法然上人の御影を刻んだ「法然上人坐像」(奈良・當麻寺奥院蔵)。こちらはこの特別展オリジナルのアクリルスタンド法然上人の御影を刻んだ「法然上人坐像」(奈良・當麻寺奥院蔵)。こちらはこの特別展オリジナルのアクリルスタンド

 法然上人の生誕地は、 美作(みまさか)国久米南條稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町里方)で、そこには法然上人二十五霊場第1番札所の誕生寺(岡山県久米郡)があります。平安末期の1133(長承2)年4月7日、地元の治安を担う押領使である漆間時国の長男として誕生、勢至菩薩にあやかり「勢至丸」と名付けられました。

 9歳のある日、対立していた相手から夜襲を受け、深手を負った父は、「敵を恨んではならない。敵討ちをすれば、その子がお前を恨み、恨みが連鎖してしまう。出家して私の供養をしておくれ。そしておまえ自身も悟りを求めることで救われてほしい」という言葉を勢至丸にのこし、この世を去りました。

 叔父が住職を務める天台宗の菩提寺を経て、勢至丸は比叡山延暦寺(滋賀県大津市)で修行を始めます。15歳にして髪をそって受戒。正式に天台宗の僧侶となりました。比叡山の西塔黒谷にある青龍寺の慈眼房叡空に師事します。師は、法然道理(あるがままの姿)と2人の師の名前(源光と叡空)から一文字ずつを取り、「法然房源空」の名を授けます。24歳の時、京都や奈良の寺院を巡り、各宗の学僧を訪ねました。

「智恵第一の法然房」と呼ばれるようになった法然上人は、仏教の理解に乏しい凡夫が救われる教えを求めて、青龍寺の報恩蔵(経蔵)に籠り、一切経を5回も読破しました。43歳のある日、唐の高僧・善導大師が遺した『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』の一節から、「ただ一心に念仏を称えれば救われ、極楽へ往生できる」という専修念仏の教えを見いだします。

 東山の吉水草庵で、教えを説き、法然上人を慕う人々が増えていくにつれ、他宗派の反発が強まり、度重なる法難に。1207(建永2)年には、弟子である青年僧の住蓮と安楽が、後鳥羽上皇の侍女を出家させたことで上皇の怒りに触れ斬首、念仏停止の院宣が下り、法然上人も74歳にして讃岐国(現在の香川県)へ流されます。本来は土佐国(現在の高知県)のはずが、法然上人を慕い浄土信仰に篤い九条兼実(先ほども出てきましたね)の配慮で手前に留め置かれました。
 
 5年後に罪を解かれ帰京、大谷禅房(現在の知恩院勢至堂付近)に戻ります。弟子の源智の願いにより浄土宗の教えの要点をつづった『一枚起請文』をまとめ上げた2日後、1212(建暦2)年1月25日に80歳で往生しました。