【86】1998年
過剰接待汚職、重なる失策…
大蔵省が分離・解体へ
1998年1月、大蔵省を舞台とした過剰接待汚職事件が明るみに出た。銀行は「MOF担」と呼ばれる大蔵省担当者を置き、接待攻勢によって大蔵省の金融検査の日程などの情報を聞き出していたのだ。銀行の不良債権処理問題への関心が高まる中、大蔵省と金融業界との癒着ぶりは、国民の怒りを買った。接待の場には、東京・歌舞伎町の“ノーパンしゃぶしゃぶ店”が頻繁に使われていたことも話題になった。
大蔵省、日銀から7人が逮捕・起訴され、その責任を取って三塚博蔵相と、元大蔵省事務次官の松下康雄日本銀行総裁が辞任したほか、小村武事務次官、長野厖士証券局長、山口公生銀行局長ら多くの幹部も辞任し、最終的に処分された大蔵官僚の数は112人にのぼった。事件の最中には、自殺者も出る事態となった。
98年3月8日号では「大蔵省の大罪」という特集が組まれた。特集では、大蔵省と銀行の癒着の実態にもメスを入れつつも、そこだけに論点を絞っているわけではない。そもそもバブルの発生まで遡り、大蔵省の金融政策にどんな問題があったか。さらにバブル崩壊以降の不良債権処理における場当たり的な政策の連発を非難している。
何より、97年11月の三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券の連続破綻時には、「日本発、世界金融恐慌」の寸前まで行っていた実態を指摘、金融恐慌を起こしていたら大蔵省の罪はその比ではなかったと述べている。そして「その危機は去ったわけではない」と、大蔵省の無策と失策ぶりに警告を発している。その上で、大蔵省が犯してきた“罪”を金融政策、景気対策、行政指導のやり方など細部にわたって検証し、大蔵省改革のためには何が必要かを提示する内容となっている。
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経営責任は問われなければならないが、それで監督責任が減じられるものではない。
たとえば、北海道拓殖銀行に84年4月に検査に入り、分類資産の適切な管理をするよう示達している。
拓銀はこの時点で他の都銀と比べ圧倒的に劣後していた。同じ年の1月に入った日本債券信用銀行の場合も同様だった。
そうした拓銀、日債銀を大蔵省はどう指導してきたのか。歴代役員に人を送り込んでいるが、その結果が破綻では国民に言い訳できまい。
大蔵省が立ち直るには、財政と金融を分離し、主計局を中心としたキャリアのローテーション人事を止めることだろう。金融は市場経済で動くのだから、監視役としての金融のプロを育成する必要がある。先送り体質を改善するには、10年後まで責任を負える体制にするしかない。金融危機に際しては、金融庁と財政当局が緻密な連携をとれば事足りる。金融と財政の分離論が出ている今こそが、大蔵省改革の千載一遇のチャンスといえよう』
事件を受けて98年6月、金融監督庁(後に金融庁)が新設されて、大蔵省は民間金融機関への検査監督権限を失う。さらに2001年には中央省庁再編によって財政と金融の業務が分離され、大蔵省は財務省に改称。約1200年前に制定された大宝律令以来使われてきた大蔵省という名前も失った。