土光臨調は、83年の第5次答申(最終答申)をもって解散したが、支出の削減、官僚制度の改革と公務員数の削減、許認可の整理、特殊法人の整理、国と地方との役割分担、行政情報の公開など、さまざまな提言を行った。

 その中でも、官業の効率化と市場開放を促す改革は大きな成果のひとつだろう。約20兆円の赤字を垂れ流していた日本国有鉄道(国鉄:現JR各社)、日本電信電話公社(現NTT)、日本専売公社(現JT)、すなわち三公社の民営化の道筋をつけた。土光臨調が示した改革のビジョンは、その後の日本の行政改革や経済政策の基礎となっている。

【70】1982年
“トヨタの戦後”が終わった
自工と自販の合併

 1982年7月1日、トヨタ自動車工業(自工)とトヨタ自動車販売(自販)が合併し、現在の「トヨタ自動車」が誕生した。

 トヨタは50年に経営危機と大規模な労働争議が発生した際に、トヨタ自工とトヨタ自販に、分離する道を選んでいた。再建に際して二十数行による協調融資が行われたが、融資の使途を生産資金と販売資金にはっきりと区分する必要があったのと、工・販の両部門を独立させることで経営効率を改善することが目的だった。

 当時、再建案に従って自工の初代社長として再建を指揮したのは、豊田佐吉翁から直接薫陶を受けた最後の“大番頭”、石田退三である。生産部門では「トヨタ生産方式」を確立した副社長の大野耐一らが率い、トヨタの競争力を飛躍的に高めた。

 一方、自販の初代社長となったのは戦前、日本ゼネラル・モーターズ(日本GM)の副支配人からスカウトされた神谷正太郎。そして神谷と共に日本GMからやってきた花崎鹿之助と加藤誠之がそれを支えた。自動車販売といえば、地場資本による代理店(フランチャイズ)方式が特徴だが、この手法を構築したのが神谷である。また現在はショールームに呼び込む方法が主流だが、昭和のカーディーラーの営業マンといえば飛び込みで企業や一般家庭を訪問販売するのが一般的だった。いずれも神谷、花崎、加藤の3人が日本GMから持ち込んだ手法だった。

 分離後、自工は車両の設計・製造に専念し、一方で自販は販売戦略やマーケティングに注力することで、両社は独立して経営されてきたが、80年代に入ってグローバル競争が激化する中で、さらなる成長と効率化を目指すために再統合が検討されるようになった。そして32年ぶりに再統合がかなったわけだ。新生・トヨタ自動車の社長には豊田家出身の豊田章一郎が就いた。