【71】1983年
日本製を米国市場から締め出し
日米スーパーコンピューター摩擦

 1980年代に入り、日本メーカーの技術力を米国は明らかに脅威と捉えるようになっていた。例えばコンピューター分野だ。宇宙、航空、原子力などの大規模な科学技術計算の処理を行う際に使用するスーパーコンピューター。この領域はもともと、クレイ、IBM、CDC(コントロール・データ・コーポレーション)といった米国メーカーが世界をリードしていたが、富士通、日立製作所、NECなどが躍進を遂げてきた。

 81年に通商産業省(現経済産業省)が「科学技術用高速計算システムプロジェクト(通称:スーパーコンピュータープロジェクト)」を開始し、80年代を通じて国を挙げてスパコン開発が取り組まれた。日本のコンピューターメーカーに大規模な補助金を交付するなどで支援を行ったのである。こうして、82年には富士通の「FACOMM」と日立の「HITACS」、83年にはNECの「SX」といったスパコンが相次いで登場した。

 1983年7月30日号では「“経済大国の生命線”スーパーコンピュータ大戦争」というタイトルで、米国に勝負を挑もうとするスパコン分野について特集を組んでいる。

1983年7月30日号「“経済大国の生命線”スーパーコンピュータ大戦争」1983年7月30日号「“経済大国の生命線”スーパーコンピュータ大戦争」
PDFダウンロードページはこちら(有料会員限定)
『スーパーコンピュータ開発をめぐる、米国の焦りの背景は意外に根深い。米国の先端技術開発力がスーパーコンピュータのみならず、全般的に長期低落傾向にあり、このまま放置すると、日本や欧州主要国に決定的リードを許してしまう、という危機意識がそこにある。
 1953年から73年にかけ主要工業国6カ国で行なわれた、500件の“トップ・イノベーション”を分析した調査によると、米国のイノベーションは319件、全体の64%を占める。このシェアは危機感を募らせるほど低くはない感じだが、時系列の国際比較でみると、確かに米国の地位の相対的低下は歴然としている。
 1950年代には米国は世界のトップイノベーションの4分の3を占めたものが、1970年代から現在にかけては半分か、それ以下に減少したと推定される。反対に日本は1960年代以降、急速に力をつけ、西ドイツを抜き、イギリスに迫っていることがわかる。
 なかでも技術革新の塊のようなスーパーコンピュータの分野で、日本が意外に早く力をつけてきたことに、米国は脅威を感じている』

 実際、80年代後半になると、これらの国産スパコンは性能の高さとコストパフォーマンスから、欧米の大学、研究機関、政府機関にも導入されるようになる。逆に米国政府は日本製スパコンへの警戒を強めていき、「日米貿易摩擦」の標的となった。

 85年に米国国立大気研究センター、87年に米マサチューセッツ工科大学のスパコン導入に際し、入札で日本製に決定したにもかかわらず、キャンセルされるという事態が起こった。さらに89年には、米国が日本のスパコン政府調達に関して「スーパー301条(不公正貿易国・慣行の認定と制裁条項)」に基づいて優先監視を行うことを決定する。

 96年には米国国立科学財団の入札で、クレイ社からNECのスパコンの価格が不公正であると提訴され、裁判の結果、制裁措置としてアンチダンピング関税が課せられることになる。2001年にダンピング制裁が解除されるまで、日本製スパコンは事実上、米国市場から締め出される結果となったのである。