この新たな船出に際し、1982年10月9日号から13号にわたって「これがトヨタの真実だ!」という連載が始まった。合併前の自販で会長を務め、トヨタ自動車では相談役となっていた加藤に取材を重ね、実現した企画だ。第1回の前書きにはこう書かれている。
PDFダウンロードページはこちら(有料会員限定)
各回のサブタイトルを列挙してみよう。
(1)いまのトヨタは佐吉翁の精神を忘れている
(2)自工・自販の“不協和音”はこうして生まれた!
(3)ツユと消えたトヨタ=日産=フォード提携
(4)自工・自販の分離は人災だった
(5)労使対決にブレーキかけた“現場主義”
(6)永すぎた分離 32年の歳月
(7)自工を憤慨させた自販の“国民車構想”
(8)かくて“販売のトヨタ”は作られた
(9)対米輸出25年間の紆余曲折
(10)場当たり主義で貫かれたトヨタの海外戦略
(11)とどまることを知らなかった自販の事業欲
(12)自販の“遠心力”を上回った自工の“吸引力”
(13)トヨタ合併のすべてを語りたい
最終回となる1983年1月8日号からも引用しよう。
それも、自分をはじめ、英二、花井ら工・販分離以前からトヨタとともに歩いてきたトヨタ・マンが現役である時代に、である。
だが、一挙に合併へ突き進んでは、社内の抵抗も強いし、トヨタにガタがくる懸念もある。 とくに自工はともかく、自販にその傾向が強いことは分かり切っている。
「すべては2段階だ」
加藤は作戦を練った。その構想は次のようなものだった。
まず第1段階として、自販の経営をスッキリさせる。その手段として、将来のトヨタグループ総帥である自工副社長の章一郎を、自販社長に迎え入れる。章一郎なら、自販社内の抵抗も少なく、全国のトヨタ系ディーラーも、喜んで迎え入れてくれるだろう。
同時に、章一郎に販売の経験をさせ、新生トヨタの社長就任に備えさせる。第2段階としての工・販合併のあかつきには、自販側にとっても、自分たちを十分に理解する心強い味方ができることになる。当時のトヨタの置かれた状況を考えれば、これ以上の策は見当たらなかった』
加藤が合併に向けて、どのような手順を踏んで臨んだか、現在に至るトヨタの礎を作った“非豊田家”の視点がふんだんに盛り込まれた内容で、実に興味深い。