その様子が、93年3月13日号「日住金支援問題 大荒れの舞台裏」でドキュメント風にまとめられている。

1993年3月13日号「日住金支援問題 大荒れの舞台裏」1993年3月13日号「日住金支援問題 大荒れの舞台裏」
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『大蔵省銀行局長室には、小山嘉昭審議官をはじめ、銀行局の主要メンバーが集合していた。
 2月26日午前10時。日本住宅金融(日住金)本社の一室で、第2回目の母体9行(出資銀行)による再建会議が始まった。出席者は席順に、三和、横浜、東洋信託、三井信託、北海道拓殖、大和、千葉、あさひ、さくら。
 司会の日住金・丹羽進社長は、再建案合意のポイントとなる4項目について説明、次に了承できるか、まず三和に聞いた。三和は了承。次に横浜。拒否。以後、午後10時15分まで、12時間余にわたり難航する会議の始まりだった。
 この再建案は大蔵省がまとめたものだ。主力銀行として大蔵省と接触してきた三和は当然合意済み。だが、他行は敵対していた。
 会議室には4台の携帯電話を、三和が持ち込んでいた。この電話によって、会議の内容、各行出席者の発言は逐一大蔵省銀行局長室に伝わるようになっていた。大蔵幹部たちはなんとしてもこの日に母体行に合意させるべく、電話を待っていた』

 今思えば、母体行が住専への貸出金利を減免する程度で、住専危機が解決するはずはなかった。景気回復、地価と株価の上昇を当て込んだ、楽観的で一時的な生命維持装置にすぎない。実際、地価下落は止まらず、先送り策はさらに傷を広げただけに終わった。

 そして2年後の95年8月、大蔵省による住専各社への立ち入り調査が行われ、農林系1社を除く住専7社で、総資産の半分に達する6.4兆円にまで損失が膨らんでいることが判明する。その処理については、母体行と一般行がそれぞれ債権放棄(母体行3.5兆円、一般行1.7兆円)により分担し、残りの1.2兆円のうち農林系金融機関の自己負担分は5300億円で、残り6850億円については公的資金を投入することが閣議決定された。農林系の責任が棚上げされた理由は、与野党にとっての大票田となる農民票を意識したものであることは明白だった。

 この公的資金の投入をめぐり国会審議は大荒れとなり、「住専国会」と呼ばれてテレビも新聞も連日報道した。国会では当時の銀行局長が93年当時に起案されたずさんな再建計画について、「当事者によってまとめられたもの」と答弁したが、事実は前記の通りである。

 また、後に明らかになることだが、93年1月中に大蔵省と農林省、農林中央金庫の3者が何度も会合を持ち、2月初旬には農林系を優遇するという密約を結んでいた。そもそも記事にある2月26日の日住金再建会議は、それを前提にして開かれたものなのである。

 一般に、住専問題といえば住専国会が話題になった95~96年を思い起こす読者は多いだろう。しかし、振り返れば本来の“ヤマ場”は、住専の闇が明るみに出始めた93年ごろにあったのは間違いない。