野地秩嘉

ノンフィクション作家

1957年東京都生まれ。著書に『サービスの達人たち』『サービスの天才たち』『トヨタ現場の「オヤジ」たち』『高倉健インタヴューズ』『ユーザーファースト穐田誉輝とくふうカンパニー――食べログ、クックパッドを育てた男』など多数。

第49回
伊藤忠がIT事業に超速で着手できた理由、NTT幹部もインターネットを理解不能な時代に
野地秩嘉
1995年の11月、ウインドウズ95が発売された。その年、パソコンの国内出荷台数は初めて500万台を超えた。その後、2000年には1000万台を突破し、2010年以降は毎年、1500万台に届き、コロナ禍で在宅勤務が増えた2020年の出荷台数は1591万台。過去最高となった。
伊藤忠がIT事業に超速で着手できた理由、NTT幹部もインターネットを理解不能な時代に
第48回
伊藤忠が変えた「ファミマの経営速度」、織田信長の戦略との共通点
野地秩嘉
長年コンビニビジネスに携わり、ファミリーマートへの出向経験もある食料カンパニー幹部は言った。「伊藤忠が関わるようになってからファミリーマートは変わったと思います。いちばん変わったのが物流です」。
伊藤忠が変えた「ファミマの経営速度」、織田信長の戦略との共通点
第47回
伊藤忠が「ファミマの物流」を激変、配送車を7割減らした方法とは
野地秩嘉
ファミリーマートに出資してから、伊藤忠が変えたのは各店舗への配送システムだった。ファミリーマートのある社員は、伊藤忠にいた頃からコンビニビジネスにかかわっている。彼は店舗への配送車を減らすことに心を砕いた。
伊藤忠が「ファミマの物流」を激変、配送車を7割減らした方法とは
第46回
伊藤忠のファミマ出資交渉の内幕、セゾンとの「我慢比べの30分」とは
野地秩嘉
伊藤忠が従来のトレーディングから進化したビジネスが二つある。それはコンビニビジネスとITビジネスだ。二つへの関与が本格化したのは1990年代末からだ。98年にはファミリーマートへ出資し、99年には傘下の伊藤忠テクノサイエンスが上場している。いずれも丹羽宇一郎が社長だった6年間にやったことだ。
伊藤忠のファミマ出資交渉の内幕、セゾンとの「我慢比べの30分」とは
第45回
伊藤忠・岡藤会長が常に社員へ求めること、新事業の発掘より大事なことは?
野地秩嘉
トレーディングから事業投資型にかじを切った時期は90年代後半から2000年代だが、事業投資の価値に気づいたのはそれより以前のことになる。
伊藤忠・岡藤会長が常に社員へ求めること、新事業の発掘より大事なことは?
第44回
伊藤忠を業界トップに押し上げた、総合商社の「ビジネスモデル」大変化
野地秩嘉
三井物産に勤めていた小林敬幸の著書には1990年代後半から2000年代にかけて総合商社が業態を変え、トレーディングから事業投資が主体となったことが書いてある。さらに、競争の指標が、単体決算の売上高から連結決算の当期純利益になったのは、総合商社の業態が変わったためだとしている。
伊藤忠を業界トップに押し上げた、総合商社の「ビジネスモデル」大変化
第43回
伊藤忠が「商社冬の時代」から復活できた理由、汚れ役を担った2代社長の勇断
野地秩嘉
商社は自ら変わらざるを得なくなった。これまでも環境の変化に合わせて仕事を変えてきたのが商社の姿であり、本質だからだ。各総合商社は、1990年代の後半からバブル崩壊後の清算を急ぎ、体質改善を進めていった。不良資産を処理し、加えて人員を減らしていった。
伊藤忠が「商社冬の時代」から復活できた理由、汚れ役を担った2代社長の勇断
第42回
伊藤忠の「資源ブーム乗り遅れ」を招き、岡藤会長が再発防止を誓った失敗とは
野地秩嘉
岡藤正広が繊維部門の営業に出た1979年、アメリカで一冊の本が出た。ハーバード大学の社会学者エズラ・ヴォーゲルが書いた『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』である。同書は1カ月遅れて日本で翻訳本が出て、最終的に70万部のベストセラーになった。
伊藤忠の「資源ブーム乗り遅れ」を招き、岡藤会長が再発防止を誓った失敗とは
第41回
伊藤忠・岡藤会長が教える、ビジネスの成功に必要な「2つのこと」
野地秩嘉
伊藤忠会長の岡藤正広は、伊藤忠パーソンがやるべき仕事とは「マーケットインとイニシアチブだ」と言っている。消費者の立場になってイノベーションを考えることがマーケットインであり、イニシアチブを握れば独占に近い立場となり、肥沃(ひよく)な市場の創成者になることができる。
伊藤忠・岡藤会長が教える、ビジネスの成功に必要な「2つのこと」
第40回
伊藤忠・岡藤会長が耳をすませた帝国ホテルでの母娘の会話、大儲け波乱万丈ドラマ
野地秩嘉
帝国ホテルで展示会を開いた英国屋は高級紳士服のテーラーで、創業は戦前の1940年。銀座にある本店のほか、全国に9店舗を擁している。英国屋でスーツを作ろうと思ったら、安くても1着で20万円はかかる。シャツを作るのだって2万円以下ということはない。
伊藤忠・岡藤会長が耳をすませた帝国ホテルでの母娘の会話、大儲け波乱万丈ドラマ
第39回
伊藤忠・岡藤会長の出世の転機となった「東京出張の1日延長」
野地秩嘉
東京大学経済学部を卒業した岡藤正広が伊藤忠に入社したのは1974年のことだった。生まれたのは大阪。実家は卸売商である。戦地から復員した父親が戦後、百貨店の食堂に野菜などを卸す仕事を始めたのだった。商売は悪くはなかったが、大金をためるほどではなかった。鮮魚や青物の卸売商は市場の仕入れは掛けで買える。
伊藤忠・岡藤会長の出世の転機となった「東京出張の1日延長」
第38回
伊藤忠が「安宅・東亜石油問題」で瀕死に、苦境を支えた3社長の功績とは
野地秩嘉
1974年、伊藤忠の社長は中興の祖と呼ばれた越後正一から戸崎誠喜に代わった。戸崎は在任中の思い出を次のように語っている。「在任中の大きな案件としては、(1)安宅産業の合併(2)東亜石油問題(3)東京本社ビル(青山、外苑前)の建設-の三つが挙げられます。
伊藤忠が「安宅・東亜石油問題」で瀕死に、苦境を支えた3社長の功績とは
第37回
伊藤忠商事の商売は「ファミリーマート」の店内を見ればわかるワケ
野地秩嘉
石油ショックは1970年代に2度、起こっている。第1次石油ショックは1973年。第4次中東戦争を機に起こったもので、この時OPECは石油の公示価格を約2倍に引き上げた。石油自給率の高いアメリカ、ソ連(当時)はともかく、日本とヨーロッパは大きな打撃を受け、トイレットペーパーや洗剤の買い占めが起こった。
伊藤忠商事の商売は「ファミリーマート」の店内を見ればわかるワケ
第36回
「元大本営参謀」の伊藤忠会長が説いた、軍隊と会社の組織運営の相違点とは
野地秩嘉
瀬島龍三の伊藤忠時代の仕事をあらためて考えると、いすゞ、GMの提携に見るような調整役としては機能した。世界最大の企業といすゞが提携できたのは、いすゞの代わりに交渉した伊藤忠が両者に気を配り、落としどころがわかっていたからだ。
「元大本営参謀」の伊藤忠会長が説いた、軍隊と会社の組織運営の相違点とは
第35回
「伊藤忠商事の元陸軍参謀」が残した、大胆な経営が可能な仕組みとは
野地秩嘉
伊藤忠は、1971年にいすゞ、GMの提携を仲介して初めて総合商社として認められたようなもので、それまでは大阪から来た繊維商社にすぎなかった。売り上げは1兆円を超えていたし、戦前からの歴史のある会社ではあった。だが、GMのパートナーとなるまでは、関西発の一繊維商社のイメージから抜け出すことはできなかったのである。
「伊藤忠商事の元陸軍参謀」が残した、大胆な経営が可能な仕組みとは
第34回
伊藤忠商事が「オイルショックの商社叩き」で得たものと失ったものとは
野地秩嘉
東亜石油の失敗が明らかになったのがオイルショック(第一次)のときだった。1973年、第4次中東戦争が勃発すると、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)に加盟するアラブ産油国は親イスラエルの政策を取るアメリカ、ヨーロッパ、日本などに対して、石油の供給制限をする戦略を取った。次いで、アラブ以外も加わるOPEC(石油輸出国機構)が原油価格を約4倍に引き上げたため、オイルショックとなる。
伊藤忠商事が「オイルショックの商社叩き」で得たものと失ったものとは
第33回
伊藤忠商事はいかにして「いすゞ・GM提携」の仕掛け人となったのか
野地秩嘉
クライスラー、フォードに振られた伊藤忠交渉チームは、「当たって砕けろ」の覚悟で世界一の自動車会社GMにアプローチすることにした。GMの存在は大きかった。相手がGMであればビッグスリーの二つの会社からNOと宣告されたスタッフも士気は上がる。室伏稔、酒井隆のふたりは「やりましょう。このままでは引き下がれません」と気迫を込めて瀬島に迫った。
伊藤忠商事はいかにして「いすゞ・GM提携」の仕掛け人となったのか
第32回
伊藤忠商事は「いすゞ・GM提携」で、米ビッグスリーとどう渡り合ったのか
野地秩嘉
総合商社の自動車ビジネスは戦後、始まった。当初は自動車メーカーの国内販売事業、つまりカーディーラーの運営である。その次は国産車の輸出支援と海外での販売店運営事業だった。
伊藤忠商事は「いすゞ・GM提携」で、米ビッグスリーとどう渡り合ったのか
第31回
伊藤忠商事の急成長を支えた「高度成長時代と敗戦体験」とは
野地秩嘉
伊藤忠の越後正一、瀬島龍三が石油ビジネスと同程度に力を入れたのが自動車ビジネスである。自動車ビジネスはすそ野が広い。1台には3万点もの部品が使われている。そのいくつかを納入するだけでも利益になる。また、完成車の輸出ビジネスもあれば販売するカーディーラーを経営することもできる。
伊藤忠商事の急成長を支えた「高度成長時代と敗戦体験」とは
第30回
伊藤忠商事が石油事業の失敗で学んだ「仮説に頼る危険性」とは
野地秩嘉
1966年、伊藤忠社長の越後正一は川上、川下だけでなく「川中」進出を決意し、石油精製会社、東亜石油に経営参画を決めた。
伊藤忠商事が石油事業の失敗で学んだ「仮説に頼る危険性」とは
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