八幡和郎

評論家

やわた・かずお/1975年東京大学法学部卒。同年、通商産業省(現・経済産業省)に入省。1980年から1982年までフランス国立行政学院(ENA)留学。国土庁長官官房参事官、通産省大臣官房情報管理課長を歴任後、1997年に退官。現在は徳島文理大学教授を務めるほか、作家、評論家としても活躍。テレビ朝日「朝まで生テレビ」、TBS「サンデーモーニング」など数多くの番組に出演。著書に『世界と日本がわかる最強の世界史』『日本の総理大臣大全』『令和太閤記 寧々の戦国日記』『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』『家系図でわかる 日本の上流階級』『世界史が面白くなる首都誕生の謎』『日本人のための日中韓興亡史』『江戸三百藩の通知表』『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』『江戸時代の「不都合すぎる真実」 日本を三流にした徳川の過ち』など。

「皇室のルーツ」どこまで知ってる?教科書では学べない“万世一系”の真偽
八幡和郎
世界を相手に活躍するビジネスマンなら、自分の国の歴史とか文化についてうんちくくらい語れないと少し恥ずかしい。しかも、単に知識があるというだけでなく、外国人から「一目置くべき人だ」と評価されるような内容を語るべきだ。ところが、戦後の歴史教育は、日本人に戦前を反省させ、国民に「日本は他の国より優れてる」とは考えさせないことを目指してきた。だから、日本人は相当立派な学歴の人でも、自国の歴史を誇らしく語ることができない。
「皇室のルーツ」どこまで知ってる?教科書では学べない“万世一系”の真偽
【どうする家康】NHK大河では放送禁止?朝鮮出兵での「歴史的な戦い」とは
八幡和郎
先週は明の国力が衰退し、南蛮人が我が物顔で東アジアの海に跋扈(ばっこ)する中で、秀吉の大陸出兵はそれなりに合理的な判断だったということを書いた。今回は、朝鮮遠征がいかなる展開を見せたかについて解説したい。
【どうする家康】NHK大河では放送禁止?朝鮮出兵での「歴史的な戦い」とは
世界最古の企業は日本にあった!老舗企業の多さと皇室の歴史の共通点とは?
八幡和郎
日本の皇室は世界で一番古く、しかも、万世一系。つまり、“創業者”である神武天皇から男系男子で継承されているので、格別にありがたいと言われている。その真偽と評価については、後で論じるが、日本はまた、老舗企業が世界一多い国だともいわれている。世界の創業年数が100年以上の企業のうち日本の企業は50%、創業200年以上では65%だという。
世界最古の企業は日本にあった!老舗企業の多さと皇室の歴史の共通点とは?
【どうする家康】秀吉の朝鮮出兵がそこまで「無謀」ではなかった理由
八幡和郎
NHK大河ドラマでは極端な中国や韓国への外交的配慮が不文律だ。特に、文禄・慶長の役については、寸分の前向きの評価も許されない。だから、地元からの強い要望もあるのに、加藤清正をはじめ島津四兄弟、小早川隆景、立花宗茂、宇喜多秀家などは絶対に主人公にしない。
【どうする家康】秀吉の朝鮮出兵がそこまで「無謀」ではなかった理由
秋篠宮邸の大改修が「ムダ遣い」って本当?“天皇退位”時の無計画さも影響か
八幡和郎
秋篠宮邸の改修工事や、完成後に佳子内親王が仮御所にとどまられることについて、無駄遣いだと一部から批判されている。だが、秋篠宮皇嗣殿下は、皇嗣と称号が違うだけで、皇太子とまったく同格で立皇嗣礼もしているし、公務と職員も同じ規模になったのだから、従来の東宮御所と質量ともに同レベルの施設が必要であるし、節約が過ぎたら皇室外交にも悪影響が出る。
秋篠宮邸の大改修が「ムダ遣い」って本当?“天皇退位”時の無計画さも影響か
【どうする家康】秀吉に「関東左遷」された家康が大喜びした理由とは?
八幡和郎
1590年の小田原征伐と、それに引き続いた東北地方の仕置きで、素直に秀吉に従わなかった大名たちは淘汰され天下統一ができた。徳川家康に、関東への移封が伝えられたのは、小田原城が開城する前のことであったが、家康にとっては青天の霹靂だったはずはない。
【どうする家康】秀吉に「関東左遷」された家康が大喜びした理由とは?
【どうする家康】秀吉が「家康の殲滅」を諦めた“大地震ではない”本当の理由とは?
八幡和郎
家康は軍事的に窮地に立っていたのに、えらく有利な条件で秀吉に臣従した。秀吉がそれを許した理由として、最近は天正大地震で戦争どころでなくなったというのが流行で、大河ドラマも採用している。だが、私は島津氏による九州制覇が近づき、東国どころではなくなったためと思う。ただ、それを南蛮人による植民地化を心配してのことだというのは、正しくない。そんな危険はそもそもなかったのだ。
【どうする家康】秀吉が「家康の殲滅」を諦めた“大地震ではない”本当の理由とは?
「佳子さまの結婚」は3年後?皇室評論家が語る3つの理由
八幡和郎
皇室・王室の結婚についての話題は、どこの国でも国民的な関心事でもある。しかも、彼らの結婚は、国民の結婚に対する考え方に大きな影響を与えてきた。そこで、日本のプリンセスたちの結婚の歴史を振り返り、併せて、眞子さま問題の総括、そして、佳子さまや愛子さまの結婚について予測したい。
「佳子さまの結婚」は3年後?皇室評論家が語る3つの理由
【どうする家康】織田信雄はバカ息子ではない!創業家出身「副会長」の巧みな処世術とは?
八幡和郎
織田信長の次男・信雄は、暗愚な人物として語られることが多い。信雄は、初期の豊臣政権では正二位内大臣で、徳川家康や豊臣秀長より上位だった。しかも、賤ヶ岳の戦い前夜から小牧長久手の戦いまで、織田家当主であり、秀吉の主君だったのだ。にもかかわらず、伝記は皆無であり、別の人物の伝記に脇役として登場するだけである。
【どうする家康】織田信雄はバカ息子ではない!創業家出身「副会長」の巧みな処世術とは?
悠仁さまがご進学すべきは「東大ではなく早慶」評論家が語る理由とは?
八幡和郎
筑波大学附属高校の2年生になられた悠仁さまは、学業もバドミントン部での活動なども順調で、公務にも参加され始めている。進学先については、東京大学を希望されているともいわれていたが、最近、週刊『女性自身』による「紀子さま 迫られる悠仁さまの“東大ご進学”見直し…新本命に『東京農大』が浮上する理由」という記事が出た。
悠仁さまがご進学すべきは「東大ではなく早慶」評論家が語る理由とは?
【どうする家康】「重要人物」消したデタラメな脚本、秀吉の“お市への恋愛感情”の真偽は?
八幡和郎
先週放送の「どうする家康」では、家康が堺見物をしている間に本能寺の変が起こり、忍者たちの助けでようやく岡崎に逃げ帰った。一方、秀吉は信長の次男・信雄と組み、お市と結婚し信長の三男・信孝を擁して対抗する柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで滅ぼした。その頃、信濃と甲斐を横取りすることに専念していた家康は、お市からの援軍要請を無視するしかなかった。
【どうする家康】「重要人物」消したデタラメな脚本、秀吉の“お市への恋愛感情”の真偽は?
佳子さま、愛子さま、悠仁さまが連日ニュースに…皇族も週刊誌を読んでいるって本当?
八幡和郎
皇室についてのうわさ話は、週刊誌や一部ネットメディアの世界では大人気だが、多くの国民は知らないままで、ダイヤモンド・オンラインの読者も、何が本当かよく分からないのではないか。実際、ビジネスマンはもちろん、政治家とか言論人でも知識は偏っている。だから、講演などで取り上げると、「知らなかった」と歓迎される。
佳子さま、愛子さま、悠仁さまが連日ニュースに…皇族も週刊誌を読んでいるって本当?
【どうする家康】史実無視でデタラメな本能寺の変、清洲会議で秀吉・勝家対立の“意外な理由”
八幡和郎
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、家康は京都に少人数の護衛だけで滞在した信長を、忍者を使って殺そうと計画していたが、最後になって臆病風を吹かして取りやめた。ところが、信長・信忠父子が京都に滞在しているのを見た明智光秀が、謀反により本能寺の変を起こしたという、肩透かしのストーリー展開。
【どうする家康】史実無視でデタラメな本能寺の変、清洲会議で秀吉・勝家対立の“意外な理由”
【どうする家康】「本能寺の変」なぜ起きた?ドラマチックではない“本当の理由”とは
八幡和郎
NHK大河ドラマ「どうする家康」も、いよいよ本能寺の変の前夜である。今の流れだと、家康も秀吉も増長する信長に殺意を持っていたが、それとは関係なく、家康接待の失敗でミスを犯して恥をかかされ窮地に陥った明智光秀が、家康と秀吉よりも先に本能寺の変を起こしたということになりそうだ。
【どうする家康】「本能寺の変」なぜ起きた?ドラマチックではない“本当の理由”とは
【どうする家康】嫡男・信康は切腹、家康は「残る子たち」をどう扱ったのか?
八幡和郎
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、家康が妻の瀬名(築山殿)と嫡男の信康を殺した事件をどう扱うかが注目の的だった。従来の通説では、信康夫人の五徳が、嫉妬から父である信長に手紙を書いて、信康らの非道や武田への裏切りをでっち上げて知らせたので、信長の命令で家康はしぶしぶ従ったとされていた。
【どうする家康】嫡男・信康は切腹、家康は「残る子たち」をどう扱ったのか?
「自民・維新」連立政権が得策ではない理由、“自公対立”解消のカギは?
八幡和郎
「どうする家康」では、長篠の戦いで織田信長の鉄砲隊を使った革新的な作戦で大勝利した家康だが、武田勝頼もその領国も粘り強く、徳川家中にも武田の調略の手が伸びてくる様子が描かれている。これを現代に当てはめて見ていると、当時の徳川の立場は、織田軍団のように巨大な自民党と連立を組みながらも、選挙協力でギクシャクする公明党の立場のようでもある。そこで、今回は公明党と自民党の連立維持ができるかといった緊迫した攻防について論じたい。
「自民・維新」連立政権が得策ではない理由、“自公対立”解消のカギは?
【どうする家康】嫡男を家康が切腹させた事件の通説に疑問、父子関係の異例さ示す数字とは
八幡和郎
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、前半のクライマックスともいうべき「信康事件」へ向かって話は展開しつつある。「信康事件」とは、浜松を居城としていた家康に対して、岡崎城にあった家康の正室・築山殿(ドラマでは瀬名姫)と嫡男・信康が武田との内通の疑いをかけられ、築山殿は斬られ、信康は二俣城で切腹を命じられた、というものである。
【どうする家康】嫡男を家康が切腹させた事件の通説に疑問、父子関係の異例さ示す数字とは
家康時代に始まった英王室との交流、400年前に考案された「過酷すぎる航路」とは
八幡和郎
イギリスと日本の交流が、始まったのは1611年のことである。駿府(静岡市)にいた大御所・徳川家康の元に、ジェームズ1世から使者がやってきたことに始まり、エリザベス女王も訪日のスピーチで触れられたが、ほとんどの人が知らないだろう。
家康時代に始まった英王室との交流、400年前に考案された「過酷すぎる航路」とは
なぜ家康は江戸城を嫌った?「信長・秀吉・家康」が好んだ城の特徴とは
八幡和郎
「どうする家康」(4月23日放送)では、徳川家康が岡崎城を嫡男・信康に譲って浜松城に移ることが描かれていた(1570年)。このとき、妻の瀬名は岡崎にとどまって信康を後見することになる。これにより家康とは別居し、このことが、のちの信康が切腹を命じられ、瀬名も斬殺される事件の伏線になる。
なぜ家康は江戸城を嫌った?「信長・秀吉・家康」が好んだ城の特徴とは
「武田信玄は信長のライバル」は過大評価!“甲斐のローカルヒーロー”の実像
八幡和郎
織田信長の天下統一に立ちはだかった戦国・最強軍団といえば、武田信玄(晴信)率いる甲州武士だということになっている。しかし、信玄は信長に対抗するといえるような大きな大名でもなかったし、むしろ、1565年頃からは、信長の天下取り構想に協力する従属的な同盟者であって、家康に似た立場において、信長の支持を競う立場にあった。
「武田信玄は信長のライバル」は過大評価!“甲斐のローカルヒーロー”の実像
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