1945年11月11日号「再刊の辞」1945年11月11日号「再刊の辞」
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『弊誌は今回の新発足に方(あた)りて、諸事一新を心掛けているのであります。追々改良して外国に劣らない立派な雑誌を造り上げます。
 なお、弊誌全体の方針としては、なるべく執筆の範囲を狭め、産業経済の専門雑誌に致します。従来とてもその傾向がありましたが、今後はそれを一層強化するのであります。
 政界、財界を始め、社会の各方面に問題が多い。その中に弊誌と最も関係の深いのは、産業の転換であります。
 これを全うすると否とは、日本の運命にも関係します。弊誌はこれを善処するについて全力を尽くします。そして、日本の更生に対して、何分かでも貢献し、国民の義務を全うしたいのであります』

「再刊の辞」には「産業の転換に全力を尽くす」とある。産業界の再出発に際し、GHQ(連合国軍総司令部)は、財閥解体、労働の民主化、農地改革、戦争協力者などの公職追放といった「経済民主化」を推進していく。それに伴う諸問題について、「ダイヤモンド」は毎号、多様な記事や論考を掲載することで読者の関心に応えていった。

【34】1946年
インフレ政策の稚拙ぶりに
渋沢蔵相を名指しで批判

 戦時中の日本銀行券増発、終戦後の軍需の補償支払い等を国債の日銀引き受けで賄ったことによる通貨供給の膨張、そして深刻な物資不足によって、あらゆるモノの価格が上昇し、日本は激しいインフレに襲われた。

 インフレ退治に効果的な策を打てない政府に対し、1946年1月1日号、11日号、21日号の3号連続で、「渋沢蔵相に与うる書」と題した書簡形式の記事が掲載されている。

 渋沢敬三は、祖父・渋沢栄一から後継者として認められ、東京帝国大学経済学部卒業後に横浜正金銀行に入行。第一銀行を経て日本銀行総裁となり、第2次世界大戦直後、幣原喜重郎首相に請われて蔵相に就任した。民俗学者としても功績のある教養人である。

 その渋沢に対して、社主である石山賢吉が自ら筆を執り、蔵相としての実行力に苦言を呈した。第1回の見出しには、「通貨回収、預金凍結は必至と思う。これに対し、蔵相の所見を問う」とある。書簡に続いて、著名な評論家や学者のインフレに関する論考も掲載し、政府のインフレ政策の稚拙さを批判している。

1946年1月1日号「渋沢蔵相に与うる書」1946年1月1日号「渋沢蔵相に与うる書」
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『貴殿は立派な経済学者であろう。何事も根源から努めなければ承知しない貴殿の科学的頭脳は、過去幾十年間に亘る銀行生活を無為に消光させる訳がない。時々刻々に起こる経済問題は、貴殿の感覚に触れ、それを究明する事によって、貴殿は、立派な実証的経済学者となっていられるであろう。
 その貴殿が、蔵相となった。しかも、曠古(こうこ)未曾有の難局において……。私達は、貴殿の科学的頭脳に期待した。ところが、世上の評判はあまり芳しくない。
 新聞紙もよく書かないし、議会人も悪く言う。しかも言うところは一致している。「頭はよいが、実行力がない」と。一部では貴殿の事を「財界の近衛だ」と評している。やはり頭脳を褒め、実行力を貶すのである。
 渋沢蔵相よ。もし貴殿を一箇の渋沢敬三として、その人物的価値を批判するものであれば、頭のよい事だけで沢山である。だが、政治家となった以上はそうは行かない。政治は実際である。実際を治めるものである。頭のよい事は、もちろん必要だが、それに実行力が伴わなければならぬ。実行力がなければ、政治家として零である。蔵相渋沢敬三にして、実行力を非難さるるにおいては、貴殿は深く省みるところがなければならぬ』

 翌2月、渋沢は新円切り替えを行い、すべての現金を銀行に集めた上で預金を封鎖。さらに高税率の財産税の臨時徴収によって富の均等化を行うなどで、インフレ対策と国債等の国家債務の整理を実行した。

 しかし、生産回復のための財政支出を止めるわけにはいかない。また、物不足が解決したわけでもない。このような情勢の下で物価上昇を抑えるのは難しく、その後もインフレはさらに進んでいった。