衆院選当選の直前に行った
労組潰しが違法認定

 こうした考えに基づく徹底したリストラが、経済合理性より地域の人間関係が優先されがちな農協にとって必要だったことも事実だろう。だが当然、副作用もあった。

 その典型が、JA京都に05年4月1日に吸収合併されたJA京都丹後の労働組合潰しである。

 JA京都に吸収合併される農協の職員は、統合後も引き続き農協に勤めたとしても、退職金の額を決める勤続年数が通算されないなど不利益を受けていた(福知山市や亀岡市の被合併農協の例。ただし、結果的には合併から2年後には通算されることになったようだ)。

 JA京都には労働組合がなく、「職員会」なる組織が一応、労組の代役を担っていた。

 こうした実態を知ったJA京都丹後の職員が不安になるのは当然だ。JA京都丹後の労組は合併前に、JA京都との合併後の雇用条件について経営陣に協議を求めた。

 しかし、すでに中川の影響下にあったとみられるJA京都丹後の経営陣は、団体交渉で「明確に言えない」などと不誠実な回答しかせず事実上、交渉を拒否。それだけでなく、労組に代わる組織として新たに職員会をつくって職員に加入を促し始めた。

 JA京都丹後の管理職は「(職員会に入らなければ)人事考課に影響するかもしれない」「何で(職員会への加入申請を)書けんのだ」などと言って職員を勧誘した。労組側は当然、危機感を強めた。

 この問題のヤマ場は合併直前の3月21日にやって来た。

 同日午後1時30分から、JA京都丹後は職員100人以上を集めて合併後の人事異動の内示を行ったのだが、ある部長が、執行委員長や書記長など労組幹部ら4人を名指しして、内示を後回しにする旨を告げたのだ。

 そして、その直後に開かれた職員向けの説明会には、いよいよ中川本人が出席した。彼は、「JA京都には『職員会』がありますよ。そこで話し合いをしよう」「全体の中ではなかなか会議が進めにくいので、代表選手(『職員会』のこととみられる)を決めてもらって全員入った中で話がしたいと申し上げておりましたが、訳の分からん労働組合さんが結局話もせずに今日まできてしまいました」「JA京都もJA京都丹後も要らんという人はまだ人事について(内示を)おつなぎできていない」などと労組を敵視する発言を行った。