まず、JA京都は中央労働委員会に再審査を申し立てた。そこで再び敗訴すると、今度は裁判所に戦いの舞台を移した。中央労働委員会による救済命令の取り消しを求めて提訴したのだ。結果は、東京地方裁判所で敗訴(11年3月)、東京高等裁判所で敗訴(11年11月)、最後に最高裁がJA京都の上告を不受理とするまでには、労組潰しが行われてから実に7年以上が経過していた。

 労組は長い闘争を戦い抜いた。だが、訴訟に勝ったが、実質的には敗れたと言わざるを得ない。7年以上もの間、労組は農協内で徹底的に弾圧され、弱体化を余儀なくされたからだ。

 JAグループ京都の労組関係者は筆者に「労組側は経営陣とのやりとりをしっかり記録していた。中川らは油断して(労働委員会から不当労働行為の認定を受けるようなことを)まくし立てた。それが彼らの敗因になった」と内幕を明かした。逆に言えば、労組側が中川らの発言を慎重に記録していなければ、悪質な労組潰しは握りつぶされていたかもしれないということだ。

 JA京都の労組は、農協系労組の全国組織、全国農業協同組合労働組合連合会(全農協労連)や共産党の側面支援を受けていたので長い法廷闘争に耐えることができたともいえる。

 全農協労連幹部は「京都の農協は労組活動が活発なことで有名だったが、残念ながら、JA京都においては見る影もなくなってしまった」と話す。

アメとムチの統治手法
恐怖支配で抵抗勢力を弾圧

 指摘しておきたいのは、この労組潰しが、中川による農協の「恐怖支配」を象徴しているということだ。彼は自分に服従し、手足となって働く職員は優遇し、労組のような邪魔な存在は徹底的に冷遇してきた。

 JA京都丹後が行った職員会への強引な勧誘活動は不当労働行為に認定されたが、農協はこの職員会の問題について「人事部長が個人的に結成を企てたもので、JA京都丹後は関与していない。問題の責任を取らせるため、人事部長ら関係した職員を懲戒処分とした」などと労組に説明。合併前の3月11日付人事で、人事部長は課長職に降格させられた。しかし、である。当該の前人事部長は合併当日の4月1日付で、人事・コンプライアンス部長に返り咲いているのだ。

 吸収合併された農協の前人事部長が、合併後の農協の人事・コンプライアンス部長に就任するのだから、懲戒処分どころか昇進といっても過言ではない。中川は汚れ役を引き受けた幹部職員を人事で処遇したのだ。このようにしてJAグループ京都の幹部職員は中川に忠誠を誓うイエスマンたちで固められていった。

 なお、労組潰しが不当労働行為に認定されたことなどを意に介すことなく、中川は権力の階段を上っていった。JA京都丹後を吸収合併した05年の夏、衆院選挙に出馬し、小泉チルドレンとして中央政界に進出したのだ。