【42】1954年
日本航空が国際線就航
国策として育成せよと主張
戦後の日本はGHQによって民間航空事業が禁止されていたが、1950年に解除され、51年8月に日本航空が設立された。同年10月に、日本航空は東京―大阪―福岡間の国内路線を営業開始した。ただし当時は、外国航空会社5社による共同設立会社であるJDAC(Japan Domestic Airline Company)が日本に乗り入れており、機材は同社からの借り物で、運航・整備も同社に委託していた。自主運航が実現したのは52年からだった。
そして54年2月には、東京―ホノルル―サンフランシスコ線の国際運航を開始した。それを受け、54年4月5日号に「日本航空を育成せよ」という記事が掲載されている。
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日航が国際線を拡充することによって、円貨による航空旅行が可能になるとともに今後の努力とサービス次第では、外国人乗客の利用も可能となる。今まで全部外国航空会社に渡っていた外貨の節減に資するところが大きいのである』
ただし、航空機の購入だけでも莫大な資金が要るのが航空事業である。創業からわずか3年の日航は、いまだ赤字会社であり、資金力がまるで足りない。そして赤字の原因の大半が、機材への設備投資に伴う借入金の金利負担と、外国人社員の人件費だという。
わずか60人の外国人社員の給与が、役員以下600人近い日本人従業員の給与より高いのだという。外国人社員のうち最も高給なのは国際線機長や副機長で、これらを日本人に置き換えることで人件費は3分の1になる計算だが、社員教育のスピードと安全性の確保とのバランスもあり、早期に実現する話ではない。
また、資金が足りないからといって全額出資の公社となって公共企業体となると、予算の国家承認や会計法規上の制約などから、自由な国際競争で機動性を失いかねない。なので、あくまで「半官半民」の形態を守りつつ、「利子補給」と通行税、揮発油税、事業税といった「諸税の減免」を行うべきと、記事では主張している。
これは単に一日航の問題ではなく、国家百年の計を立てる国策的な意味で援助すべきである。
国家が、日航の金利を補給し、諸税を引下げ、民間が資金を貸し増資に応じて援助するならば、日航は、外国の競争会社と対等の立場を得ることができる。
その上、日本人特有のサービスと勤勉性に加え、優れた技術力の特異性を生かせば、日航は必ず順調な発展を遂げると確信する』
実際、初期の日本航空は、政府からの多岐にわたる優遇措置を受けることで迅速に成長し、日本のフラッグキャリアとしての地位を確立することができた。しかし、これらの優遇措置は、後の経営破綻へとつながる「親方日の丸体質」の温床ともなったことを、後の世を生きるわれわれは知っている。