【41】1953年
“戦後派”企業の活躍
創業5年目のホンダが誌面に

 第2次大戦後に育った、従来の思想や道徳に拘束されずに行動する若者は当時、「戦後派」「アプレゲール」と呼ばれたが、この頃になると企業にも戦後派が活躍し始める。例えばホンダだ。

 1953年8月5日号には「世に出る会社」として、創業から5年目のホンダが紹介されている。

1953年8月5日号「世に出る会社 異色を放つ本田技研工業」1953年8月5日号「世に出る会社 異色を放つ本田技研工業」
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『当社は、オートバイのメーカーである。5.5馬力のドリーム号とバイク・モーターを製造している。
 設立後わずかに5年を経過したにすぎないが、全国に4工場(埼玉県1、浜松市2、東京1)、5支店を持ち月産金額6億円に上る大会社にのし上ったのである。
 もっとも、昭和23年9月に資本金100万円で発足する前は、本田技術研究所というものがあった。これは21年10月の設立、バイク・エンジンの研究をしていたのである。それから計算しても7年にすぎない。戦後、短期間に素晴らしく発展したもので、異彩を放つ戦後派の会社である。
 発展の原因は、社長本田宗一郎氏の発明力である。氏は、一職工から身を起こした人である。静岡二俣の生まれ、当年48才。高等小学校を卒業すると、衣食の道を求め、自動車修理工場の職工となった。21才の時、早くも独立して、自分で自動車の修理工場を始めた。28才の時、これを東海精機という小会社に引直し、ピストンリングの製作を始めた。この会社には、戦時中、豊田織機の資本が入ったが、豊田系の重役と折合わず、戦後再び独立して、前記の本田技術研究所を始めた。そして、現在の発展を見るに至ったのである。この間、本田氏が得た特許権は130、昨年、陛下から藍綬褒章を賜わった。
 それ故、当社の製作するオートバイは、外型においても、内容においても、外国製品を模したものではない』

 この後、ホンダは55年に二輪車生産台数日本一を達成し、57年に東証1部上場を果たす。63年に四輪車に進出し、その翌年にF1初参戦と、引き続き急成長を遂げていく。

 ちなみにソニー創業者の井深大は、著書『わが友 本田宗一郎』に収録された本田宗一郎との対談の中で、「本田さんのことを初めて知ったのは、『ダイヤモンド』の記事だった」と明かしている。