【43】1955年
すでにただものではなかった
創業9年目のソニー

 ホンダと同様、戦後生まれのグローバル企業にソニーがある。「ダイヤモンド」にとってソニーの初出記事は、1955年7月21日号のようだ。当時はまだ「東京通信工業」という社名で、46年5月の創業から9年目である。

 創業メンバーである井深大が、自作の小型ラジオを持参して編集部を訪ねてくるという記事だ。それを見て驚いたダイヤモンド社の創業者である石山賢吉をはじめ編集長ら4人は、今すぐ工場を見せてほしいと申し出て、昼食もそこそこに井深と共に東京・北品川の本社に向かう。

 本社に着くと駐車場には一介のベンチャー企業に場違いの高級車ダイムラーベンツが止められていた。しばし眺めて社屋に入ると、帝国銀行元頭取で銀行界の巨人と称された万代順四郎がいて、「後進指導のため会長をしている。若い者のために、よろしく」とあいさつされ、「これはただの会社ではない」と驚いたという経緯が書かれている。

 その後、詳細な製品説明や工場見学を果たした石山は、こう書いている。

1955年7月21日号「知能で業績をあげている東京通信工業」1955年7月21日号「知能で業績をあげている東京通信工業」
PDFダウンロードページはこちら(有料会員限定)
『当社は、知能の会社である。
 知能をもって製品を作り、時代の先端を進んでいる会社である。
 その製品は、完成が容易でない。その代わり、完成すると独占的な利益がある。その利益を土台にして、次の製品に移る。
 今日までに3段階をなしている。
 今後、さらに幾段階かを重ねるであろう。重ねるごとに、当社の大を加える。発展性に富んだ会社である。万代氏などは、これに嘱望しているものらしい。
 当社の沿革を記せば、こうである。
 1939年以来、電気測定器の製作を行ってきた日本測定器株式会社が、終戦直後閉鎖になった。
 だが、会社が閉鎖されても、技術部員は残った。技術部員の筆頭は、井深氏であった。
 たとえ、日本が戦争に負けても電気通信機が滅びるわけがない。それに関する測定器の研究が大切だということで、井深氏が主唱して、45年10月に、東京通信研究所というものを設立し、日本橋白木屋の一室を借りて、その研究に従事した。そして、真空管電圧計を作り上げた。
 すこぶる上出来だったので、通商産業省・鉄道省が認識し、機械の注文をしてきた。これに自信を得て、一会社を設立した。それが当社である。当社の資本金は19万円にすぎなかった。だが、重役は立派であった。前田多門氏が社長になり、万代氏、田島道治、増谷麟、盛田久左衛門の4氏が相談役になり、井深氏は専務であったのである。
 その後、重役組織に変更があり、現在は万代氏が会長で、井深氏が社長である』

 井深はその後、一時は連載コラムを担当していたほど誌面に頻繁に登場するようになる。